降誕祭の夜

汝の敵を愛せよ

「イエスと親鸞」を再読して  〜第一章〜

第一章 なぜ、今イエス親鸞

1 イエス親鸞の道

科学技術が何事かを実現してきたことは確かである。しかし、その具体的内容がどれほど「達成」という名に価するかは、疑問とすべきであろう。

と現代の悲惨さの原因として科学技術が『両刃(もろは)の剣(つるぎ)』であること。そして科学技術は客観的なものであるから、善悪いずれの用途であることが述べられています。その一方で善悪の客観性は個人の主観に支えられている事が書かれています。

 

科学技術は客観的なものであるが、それ故善悪、どちらにも用いられる。しかし、その善悪は個人の主観によるということだと理解しました。

 

そこから、次の2点を著者は嘆いています。

  1. 自分の精神を客観的地平に乗せるために必死で努力している人々が見捨てられ、反対に自分勝手な力を科学技術の力を使って有無を言わさない力にすることができたものが現代を左右する有力者になっていること。
  2. 科学技術と経済の力が『人間が客観的善悪の地平に立つ努力』をあざ笑い、宗教や哲学が軽視されていること。

そして、この章の途中で出てくる以下の三点がこの本の重要なポイントかなと思いました。

しかし、宗教は『客観的善悪の地平に立つ努力を元始としている。

キリスト教が掲げる「神の愛」は自分勝手な愛ではない。

仏教における「慈悲」も自分勝手な思いを捨てた愛である。 

 シャカが自分の本当の姿を見出すことにより「自分を救済する」ことを成し遂げることができた人であること。また、親鸞は浄土宗という大乗仏教の流れの中で、シャカと同じ悟りをやさしく成し遂げる道を現代の私たちに教えてくれていることが説明されています。

エス親鸞と同じように優しい道を、別の仕方で教えていること。つまりわたしたち自身が罪人(つみびと)であることを教え、その中で神の愛を味わわせることも説明しています。

 

筆者はそのことを「自己知」と書いています。真実の自分を見出すことが同時に真実の神を見出すことであると。 そこにソクラテスのことも絡め、凡人ではたどれないその困難な道を示したのがイエス親鸞あるので貴重であることも。

 

人間であるシャカが「真理」を見つけたようにイエスも「神の子」としてではなくイエスが示す教えを見定めることを大切に本を書き進めることが決意のように書かれています。

 この章を読んで感じたのは、イエスをいかに教会という権威から引き離して見直すこととに主眼を置いているということです。そして、そのことにより、より親鸞との共通性が明らかになるのではないかと訴えてます。

世界が狭くなった今、それぞれの教えがわたしたち一人一人がその教えがはたして本当に一人一人をすくる道を用意することができるかどうか、検討することににとって見分けなければならない

と、現代の人々、読者に問題提起をしています。

 

2 宗教というもの 

『宗教は「オカルト的」である』という文のところで、内心「大丈夫かなぁ」と思いました。

宗教家が語ることはに非日常的な事柄であり、宗教では、宗教的真実に目を開かれることで、神が見えたり、霊的存在が感じられたりする、と言われる。このことを幻想とみなすなら初めから宗教は幻想である。

この辺りを読んでいて、「超常的なもの」「オカルト的」「非日常的」「詩的表現」といった言葉が並び始めたので、これまで読んできた内容と真逆の方にいくのかと初めて読んだ時は少し不安になった箇所でした。

 

しかし、読み進めていくと杞憂であることがわかります。

「宗教が開いて見せようとするオカルト的政界は、自分が見るべき世界であって、」という言葉で、これまで書かれていたことにつながります。また、宗教の目的や宗教が安心をもたらすことなどが書かれていきます。

 

キリスト教の神や天使、それに奇跡や悪魔も、仏教における無数の仏もオカルト的存在と書かれています。著者はオカルトという言葉を巧みに使い、現実には存在しないものを宗教では認めていることを伝えています。そこから、「宗教」というものは特別なものではないということを、私たちが自然の美しさや生き物の姿などから慰めらることからも伝えています。

 

『目に見えるものしか信じられないなら「宗教」を捨てることであり、生き物であることを捨てることだ』という意味は理解できました。

 

「祈り」についても書かれています。儀式的なものよりもこころの中で願うことが祈りの基本であるので目に見える必要はないということです。この章の後に続くキリスト教のところではこの「こころの中」という言葉が非常に重要なキーワードになります。

 

一章の最後は西洋の医者がアフリカの原住民の部落を訪ねた時、ある祈祷師のところに中年の女性がきたエピソードが書かれています。その医師から見れば。内臓の疾患であり手術も必要な容態であるのにもかかわらず、祈祷師が、その女性にかかっているある呪いのようなものを排除する祈祷をしたところ、二日ほどでその患者の身体が完全に治ったのを見たという内容です。

 

こういった事例は、割とあるのではないでしょうか。

著者もこの事例を丸ごと受け入れているわけではないですが、事実として受け止めています。医師の診断は間違ってはいないけれど、祈祷師が病気を治したと言う事実は受け入れなくてはならないと言う意味で。

 

祈祷と医学技術とどちらを信頼すべきかの答えは、おそらくないであろう。両者は全く別の道である。〜中略〜オカルトに期待するのではなく、オカルトが働いている世界にも一定の意義があり、その意義を見捨ててきたことを、今考え直さなくてはならないのである。 

 

この章を踏まえて、これからキリストと仏教の教えについての章へと続きます。第一章が一番内容が難しかったかもしれません。

 

ganju39.hatenablog.com

 

特に、宗教というものの概念の説明のところは、内容をきちんと読み取れているかは、まだ自信がないですが、こうやって自分なりに内容や感想をまとめていく作業は結構楽しいです。