『歎異抄』の解説のこの項が、今までの各章の項の中で一番ページ数が多いです。できるだけ工夫してまとめます。
『歎異抄』(1)教えの核心
著者は前の項で弟子たちが「分からない」でいることに同情しています。というのも「念仏のみ」と教えられては分からなくて当然と書いています。
ここから親鸞の考えを明らかにするとあります。著者は第一番に挙げた節の最初の行に注目しています。
その一文とは(訳は省略しました)
(1)弥陀の請願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるとなりと信じて、
(第一段は浄土経典の中身を信じることを前提としている)
(2)念仏もうさんと思い立つ心の起こるとき、
(第2段は、ひるがえって念仏を実践する決意を持つことを述べている。)
(3)すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。
(第3段は、結果として阿弥陀仏の救いにあずかり、往生を遂げることができるという)
この一文で親鸞は、それを信じて念仏をする決意を下すと、結果として悟りを開くことができると言っているという意味なそうです。『それ』とは、極楽浄土のことでもあり、浄土経典に伝えられているシャカの念仏の教えのことだと思います。著者は霊的な世界であり物理的現実ではないと述べています。
輪廻転生について
『往生をとげる』とはこの世とのつながりを振り切って、解脱すること意味します。
そして往生するためには精神的解脱が必要であると説明が続き、輪廻転生の教義へと続きます。輪廻転生とは、死んでも、魂がこの世から離れないことで他の身体についてしまうことで生々流転が起きという意味です。
しかし、この世への執着がないのならば、魂は、その生々流転の輪から解脱できます。つまり浄土に行くことができるということです。
往生が決定する=執着から離れる=仏の悟りを得る
生きている一瞬一瞬が、実は死の間際であること。そのように見定めることができるのなら、どの一瞬においても阿弥陀仏の助けを得て往生が決定する可能性がある。有為転変(ういてんぺん)この世のなんであれ、常に同じものはない
親鸞が言いたかったことは、人は、一瞬でも解脱して救われることを知らなければならないし、そのためには念仏の決意が必要なのであること、念仏を申し上げようと思い立つこころが起こることによって、解脱が一瞬一瞬可能だということと著者は、まとめています。
ここは、ストンと心に落ちたところです。祖母が亡くなったときに、葬儀の際に和尚さんが最後のお話で「おばあさまも、前世の行いから生前は様々な苦労があったと思いますが、南無阿弥陀仏を信じたことにより、その輪から離れ、極楽浄土へと向かわれました」と言ったようお話をしてくださったこと思い出しました。
念仏の決意と輪廻転生との関わり
念仏の決意とは浄土経典の一つ「観無量寿経」に書かれています。念仏をしなければ救われないものとは下品下生であります。言い換えれば、平気で親でも殺す極悪人です。それゆえ念仏の決意とは「自分がそのような極悪人であると自覚すること」を意味するとのことです。
親殺しがどうして極悪人かということと、誰でも極悪人であることは、仏教の世界観である輪廻転生を用いて説明されています。
考えると人間は他の生き物の命を奪って生きている限り、人間は、平気で親を殺す暮らしから逃れられない(いただいている命が自分の親かもしれないということ)。だから人間は仏から見れば誰でも極悪人なのである。
極悪人の自覚を持つこと=すべての執着を捨て解脱すること
その時に、阿弥陀仏を信じ極楽浄土を信じて念仏をする人を救ってくれると親鸞は説明をしているとあります。
他力本願とは
念仏とは、阿弥陀仏の力にすがることであるから、他力本願の信心であるが、念仏の決意は「自力」であるという意味は、
他力本願とは、決して甘えた考え方ではなく、その前提として「醜い自分の姿、極悪人である自分、無力である自分」自覚した上で、自分は念仏をしなければ往生できないと知ること
このことから、浄土真宗が他力本願と言われながら、実は自力の重大さ、自己を頼むことを第一とするシャカの教えの伝統が伝わっていることが分かりました。
他力の真意についての説明は、著者の解釈の説明もあり、理解するのに苦労したところですが著者が伝えたかったのは、
発意においては自力でも、念仏は他力本願でなければならない
いうところのようです。
「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるのではなく、その前の心の在り方が大切だと理解しました。
歎異抄(3)
法然から受け取った教えについてです。解説のみ書き出します。
出家僧は上品の部類にあり、古来、修行により往生できることが約束されている。しかし、浄土宗は、さらに中品のもの、すなわち、貴族も出家していないにも関わらず念仏によって往生できると約束するものである。そのように、善人と言われる貴族が在家のまま往生できるのなら、悪人と言われる下品の庶民は、なおさらのこと往生できるはずである〜以下略〜
『歎異抄』(4)
仏の慈悲には聖道と浄土の違いがあることについての解説です。
聖道とは、自力で仏陀となる道です。その慈悲は、ものをあわれみ、悲しみ、育むものです。まことに聖人の示す慈悲です。自我を捨て、どんな人であろうと、それをあわれみ、大事にして、いくものです。しかし、そのようにすることは、なかなかできるものではありません。
他方、浄土を目指す浄土宗の慈悲とはそもかく、先に念仏して、それによって急いで、ますは自分が仏となって、仏が持つ広大な慈悲を持って、自由自在に人々を助けることをいう
と説明されています。
聖道と浄土の区別は親鸞が法然を通じて受けた区別であることのことです。ただし、「仏教の立場として聖道も浄土、どちらも「自分が仏陀となることにとよって真の救いが可能になる」というのはどの宗派でも同じであるとのことです。
仏教は、自分が救われることによって人を救うことができるという考えの宗教です。そして、ここで、キリスト教と仏教の違いが著者の言葉で表されています。
キリスト教は他者救済において自己救済が実現するが、仏教では、自己救済ののちに他者救済が可能となる。
『歎異抄』(5)
解説のみ引用します。
親兄弟であろうと、恋人であろうと、念仏によって特定のだれかを救おうなどと考えては、解脱はできない。念仏の力は、自分の力ではなく、阿弥陀仏の力だからである。だれが救われるかも、阿弥陀仏のお力しだいであると知らなければならない。
『歎異抄』(6)
解説のみ引用します。
ここには、念仏行における行者の平等が主要されている。みなが仏の弟子であって、個人の弟子ではない。人間の間での師弟関係は仮のものでしかない。しかし、その中でもたまたま出会った師が自分に仏の道を教えてくれた恩を覚えることは否定はしない。それはありがたい良縁であるのだから。
歎異抄(7)
念仏の行は、妨げることがない道である。その理由は、その業者に対しては、天の神も血の紙も敬意を持って身を伏せ、悪魔も外道すらも、邪魔だてすることができないからである。〜以下略〜
親鸞のいう念仏は、念仏を決意すること、つまり、極悪人を自覚することだから、誰も邪魔をすることはできない。誰の助けもいらない、自分のこころだけで十分という意味のことが書かれてます。
この小見出しの部分で印象に残ったのは、
「極悪人と自覚するなら、自分が悪行をはたらいてしまても、またどんな悪いことが引き続いても極悪人の自分には当然の報いであって、予想もしなかった報いと感じることはない。なぜなら、極悪人という自覚によってこの世との縁が切れているからである。」
という、著者による解説の部分です。 輪廻転生のことと、その輪から離れ浄土に行くことの意味だと思います。この境地に達する道として念仏のことを次のようにまとめています。
念仏をして仏となる道は、善行も及ぶことがない「無碍の一道」と言われるのである。
歎異抄(8)
念仏は他力ですることが書かれています。
著者の解説より
念仏は善行であると思ってすると、それは自力の念仏となる。したがって、善行を行うつもりで念仏をしてはならない。〜中略〜いずれの思いも捨て去ることができたとき、はじめて本当お念仏になるのである。
歎異抄(9)
「念仏は申し上げていますが、心が沸き立つような喜びがありません。また、急いで浄土に行きたいという思いがでてこないのは、」私の信心に間違いがあるのでしょうか」と尋ねます。
親鸞の答えはとても長いので著者は、
と、説明しています。
悟りの境地は「悲しみ」とは
仏陀の喜びは、本来の意味で善美を判断の基準とする喜びである。欲望の満足という喜びではない。それは喜びと言うよりも、善美が与えてくれる感動に打たれることである。そして、それは「悲しみ」という言葉に近い感情なのである。
ここは納得しました。自分が極悪人として自覚しているのに湧き上がるような喜びの気持ちになるはずがありません。煩悩ゆえの喜びしか私たちが知らないことを逆説的に親鸞は伝えていると読み取りました。
歎異抄(10)
念仏の本質的な意味が書かれています。
念仏は、無義であることが、その意義である。意義をもって善と名づけることもできず、その意義を説明することもできず、考えることもできないから。
「 念仏は、善としてなされる行ではない。極悪人という自覚のもとに、致し方なく、ほかになす術もなく、仏から賜った行として行われる行である。」
なんだか涙が出そうです。
歎異抄(13)
親鸞が、唯円に「わたしの言うことを信じるか」と問われ、当然「信じます」と答えます。
そうすると親鸞はこう言います。
「それでは、人を1000人殺してくれないか。そうすれば、前の往々は確実になるだろう」
「それでは。なぜ先ほど。親鸞のいうことには逆らわない、と申したのか」と話します。
唯円は答えることはできません。親鸞のいうことは何でも信じると言ったのに、恨み一つない人を殺すことができるわけがありません。
親鸞が言います。
「人間は、何事も心にまかせてできるのならば、往生のためだから人を1000人殺せといわれれば、すぐさま殺すことができるだろう。お前が殺すことができなかったのは、一人を殺す業縁がなかったゆえなのである。自分の心が善であるから、人を殺さないでいられるのでない。〜以下略〜」
時は乱世です。戦争となれば善人と言われていた人が、たくさんの人を殺すこともあります。それはその人の心が悪いからではなく、戦争という状況がそのような縁を作っているということであり、殺さなかった場合はその逆になります。
人は、自分の行為は自分の意思の決断ひとつで行われるものであると思い込んでいるます。しかし、それは自分の力を奢っていると説明しています。
業縁を切るとは
阿弥陀仏を信じて念仏をするということは、極悪人であると自覚することであり、そしてこの自覚は業縁を切る。
仏教の罪の考え方として、罪というものは、例外なく悪い縁によるもので、個人の意思によるものでないこと、人間は自分で決めていると思い込んでいるが、それは、単なる思い込みで幻想であること、そして、その悪縁は執着(欲望)から生まれるということがまず書かれています。
そして、これを断つことがもとから罪をほろぼすことになります。自分の欲望(執着)から自由であるとき人は本当に自分の判断を下します。それが本当の善悪、美醜を自分の原点とすることができるという説明されています。
「運任せの」の人生を捨てるとは
だからと言って、縁に任せてしますことは、人生を運任せにしてしまうことになる。縁に引きずられた生き方を続ける限り、悪人になるのも善人になるのも、ただの運であるので、己を捨てるためにはブッダになる必要がある。
悪縁を切る仏縁は誰にでも開かれています。その状態になる他の方法の一つとしての浄土真宗の教えなのだと思いました。
自己認識が全てを決める
最後の小見出しです。
親鸞の教えの本質は簡潔なものではあるのだが、簡単に済まないのは、教えは簡潔でもそれを学び取ることは即座にできないからである、そして、宗教の本質は自己改革である。
著者の宗教に関するまとめでもあると思います。
考え方を変えるということは、生き方を変えるということにもつながるのでしょう。
教えが単純でも、結果が違うのは自己認識が違うからと説明せれています。
もっている欲望を自己自身として肯定するか。それともそれを否定して別の自己自信を見出すか。前者の道を選べば縁につながって争いながらの人生になり、後者であれば、縁をたちきり、真実の事故に目覚め、善美の基準で生きていく人生がある。
親鸞が教えた浄土真宗は、阿弥陀仏の助けを信じることで。その縁切りを容易にするもので、それは、釈迦の教えを結果的に実現するものである。
この項では、歎異抄を手掛かりに、親鸞の教えに触れることができました。著者は、一つの物事をわかりやすく説明するために、要点をわかりやすくまとめたり根拠となる文献を示したりしています。また、違う視点から同じ物事を書いたり、例え話を入れたりして説明をしています。
第4章の中の、この最後の項は、親鸞のことを歎異抄からまとめていますが、イエスと親鸞の生き方をくらべたり、仏教の教えをシャカからのつながりの中で説明したりしてました。
また、最終章へのつなぎとなる、とても重要な役割を果たしています。
この本のことをまとめていたら、歎異抄を読んでみたくなりました。調べてみたら、何種類かあるようなので、書評を参考にして選びたいと思います。本屋さんにあるかなぁ。