本書の表表紙より
宗教は「迷信」ではない。ラディカルな自己認識への論理的な「問い」である。二人の宗教的天才が全存在をかけた「問い」とは何だったのか。ともに自己の悪を見つめたイエスと親鸞の思想に通底する「普遍性」を明らかにする。
「本書の内容」
・われわれは、みな罪人である
・親鸞の教えの背景
・「歎異抄」をよむ
・幸福とは何か
この本は2002年に書かれたもので、新品では売られていなくて、中古で購入したものです。きっかけは、3年ほど前、ようやく人生最大の転換期(危機)を乗り越えることができるかもしれないという希望が見えてきた頃、自分の今までの生き方やこれからの生き方、そして他者との関わり方などを見つめ直す必要を感じていたからです。
困難な時に、教会に救いを求めに行き、一通り私のその時の状況をお話しした後、牧師さんに「どうして、この教会にいらしたのですか?」と尋ねられ、私が入った大学がキリスト教系(プロテスタント)の大学で、毎日礼拝がありキリスト教学の講義も必修である大学だったということ。ただ、私の家は浄土真宗を代々進行している家でもあり、和尚さんのお話も何の抵抗もなく聞いてきたことなどもお話ししました。それから牧師さんとは三浦綾子氏の何点かの著作のお話などもしました。
話がそれました。さて、この本を読もうと思ったのは、イエスの教えと親鸞の教えが似ていることを高校時代の倫理社会の授業を受けた時に感じたことをふと思い出したことと、私に降りかかった、ありえないような困難な出来事について、自分なりに深く考えたいという気持ちがあったからです。
本の詳しい内容は忘れてしまいましたが、「イエスと親鸞は似ている」と高校時代に感じた私の直感なようなものは的外れではなかったと感じましたし、「本当の幸福」についても考えることができました。
今、読んでいる長編小説を読み終えたら再読しようと思っています。