降誕祭の夜

汝の敵を愛せよ

「イエスと親鸞」を再読して  第五章 幸福とは何か

いよいよ最後の章になりました。途中の見出しは、自分なりにつけてみました。

イエスと親鸞 (講談社選書メチエ)

イエスと親鸞 (講談社選書メチエ)

  • 作者:八木 雄二
  • 発売日: 2002/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 シャカの悟りと浄土宗

最初にシャカが悟りを開いたことから浄土教の教えの関連が説明されます。著者の本文を引用します。

阿弥陀仏にすがって、極悪人の自覚を持つことが真実の自己を見い出すことであるならば、浄土宗は実に「巧妙な手段」でシャカの悟りをもたらしていることになる。しかも、事実がこういうことであるなら、シャカの悟りの内実が浄土宗を通じて、シャカ自身の説明になかったところまで明らかにされているはずである。

前の項でも示されていたところです。シャカが到達した悟りの境地を誰にでも分かる方法で到達することができるようにした考え方が『浄土教』であるということの再確認だと思います。

 

浄土宗とイエスの教えの共通性

1 救われるべき人間の類似性

  •  浄土宗〜「下品=悪人=罪人」
  •  ヨハネ・イエスの教え〜罪を自覚させ、罪人を救う神の愛 

2 二つの宗教の成立の時期

  •  浄土経典が成立した西暦元前後は、キリスト教の原点の時代でもある。

3 親鸞とイエスが人々に伝えたこと

  •  親鸞〜念仏の決意を通して人々に「極悪人の自覚」を期待する
  •  イエス〜弟子に「重罪人の自覚」を求めた

4 善悪の知識についての類似

  • プラトン哲学(ソクラテス)における善美の知識の位置と天の国の善悪の知識の木の実の話は似ているものである(人間の手の届かないところにあるということ)。
  • 親鸞も「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」と善悪の知識に対する無知を自覚している。

極悪人と仏陀の間にあるもの

自分は仏陀であると思ったとたん、その人は、ただの極悪人に舞い戻る。なぜなら仏陀は最良の存在であり、自分がその仏陀であると自覚するなら、今度は、自分が殺されるのは不当であり、持ち物を奪われるのも不当だ、ということになるからである。

自分が最良(仏陀)の存在である認識したら、実はそれは最悪(極悪人)の存在になることだと思います。本当の天才や知識のある方は、それを公言したりしないことと同じ意味だと解釈しました。

「最悪の存在の自覚を持つことが、最良の存在である」というこの矛盾を親鸞阿弥陀仏の不思議な力を介在させて説明しています。

極悪人の自覚を持っていた親鸞は、阿弥陀仏の他力に感謝していたということです。そして、重罪人の自覚を持っていたイエスが神の無限の愛を受け、その「神のゆるし」に対して、感謝したことも説明されています。

 

続いて親鸞における「極悪人の自覚」とイエスの「重罪人の自覚」について、まとめの章らしく、簡潔に書かれています。

この辺りから、親鸞とイエスの似ている点がどんどん書かれていきます。

 

著者は、親鸞とイエス、どちらの自覚も、真実の自分を見い出す自覚であり、そのことにより、他者を憎む思いも失い、安らぎを得ることができるとまとめています。

 

 エスの自覚について

ganju39.hatenablog.com

  親鸞の自覚について

ganju39.hatenablog.com

 イエス親鸞

ここからは、この本のクライマックスで、親鸞とイエスについての類似点だけではなく、その思想の奥深さや、二人が求めた幸福の姿が書き綴られていきます。印象に残ったことを引用したり、感想を書いたりして一気にまとめます!

仏教から見れば、重罪人の自覚を持ったイエスは、正しい自己理解を得ている仏陀である。他方、極悪人と自覚した親鸞は、イエスの目から見れば、神にそれだけ深く許されている神の子である。また、親鸞に置いて、極悪人であるという自覚がある限りの救いであるように、イエスにおいても、罪人であるという自覚がある限りの救いである。

とうとう、ゴールにたどり着いたような著者の説明ですが、著者は、「この普遍性は客観的に対象化してとらえることは、不可能である。」と書いています。「自ら体験し、自ら味わう以外にない。」としています。

著者は、哲学者としてどちらの宗教的立場にも立たないでこの本を書いています。誠実に二つの宗教家に向き合い文献を読み、この本を書き進めた著者の想いが現れています。

 

私も生まれた家が浄土真宗ではありましたが、両親に念仏のことをお盆や葬儀などの時に言われ手を合わせるぐらいの信心でしたし、キリスト教にしても、たまたま入った大学でキリスト教学を学ばさるをえなかった(単位の関係で)という程度の理解です。

 

自分が困難なことに直面し、本当に誰にも相談できずに暑い街の中を寒気すら感じて彷徨うように歩いていた4年前の夏。ふと、目に入った教会の門をたたき、牧師さんに自分の境遇を話し祈っていただいた2時間余りの時間が実は、自分にとっての本当の意味での「宗教との出会い」であったような気がしています。それ以来、月に何回かは礼拝に行くようになり、節目では、牧師さんのところを何度か訪ねたりしました。

 

さて、本に戻ります。最後は「笑い」の話から「聖人の笑い」と「幸福」について、そして本当のこの本のゴールへと進みます。

永遠的な幸福の中で

親鸞とイエスは永遠的な幸福にいたと書かれています。彼らは「悲しみ」を語ります。イエスがいう「憐み」や「悲しみ」は、通常の悲しみではなく、「自分が罪深いということからくる自分に対する憐み」であり、「その事実を受け止めることからくる、自分ではどうにでもならない悲しみ」であるとしています。親鸞についても同様の説明がなされています

 そして、親鸞もイエスもその中にいるのです。

自己の喪失によって、初めて人は、神や阿弥陀仏の力に出合う。そこでますます自己の無力に気づいてがっかりする。その意味では、喜びなどないのである。他方、苦悩は消える。天上の「幸福」を感じる。あるいは安らぎを覚える。それは他人が言っている幸福とは違うものである。そして、こうなったときにはっきりすることは、世の中の常識のばからしさである。

 自己の喪失とは浄土宗の立場であれば「極悪人と自覚すること」でありキリスト教であれば「重罪人として自覚すること」であることだと思います。

 

世俗の幸福を私は捨てることはできません。本にあるように生活必需品であったり、住む場所であったり、そして、食べなくては生きていけません。それは、実は「何かを奪って生きていること=極悪人」ということを人々は(私もですが)、自覚していないのでないか、だから「世の中の常識のばからしさ」と著者は、強い言葉で表したのだと思います。

 

幸福とは特別な状態ではないと続きます。自己の喪失(重罪人であること)から見えてくる真実では、人間はもともと幸福だと説明されています。それは、自己をしっかり見ることができることにより、真っ直ぐにものが見えている状態であるからなそうです。

不幸こそ、特別の事態であり、そのとき人は、真っ直ぐにものが見えなくなっている状態です。つまり自己をしっかり見ることができていない状態ということでしょうか。

幸福と不幸な状態について、具体的な説明やそれに対するイエス親鸞の立場が著者なりの解説で続きます。

宗教について

最後は、哲学者としての著者の考えが盛り込まれ、内容的にもかなり難しいです。読み直しましたが、まとめることはできませんでした。

 

ラストの部分では、イエス親鸞が戦った不幸の本質とその戦い方であったり、マルクスの立場「宗教はアヘンであり・・・」が引用されたりします。

 

著者は親鸞とイエスを人間社会に対するラジカルな革命家としています。ただし、集団的な戦線を作ったりしません。彼らの敵は自分を見ようとしない自分であるからです。

 

そして、哲学者が語る「不安」についても説明されます。近代の啓蒙主義デカルトヴォルテール、ルソーやカント、ヘーゲル、現代のキルケゴールニーチェハイデッガーも登場します。一人ひとりの思想の解説はないですが彼らが語る「不安」をなんとなく著者は批判しているようにも読み取れるところが出てきます。ここでは深く触れません。

 

話は変わって、新興宗教については、高校時代の倫理社会や大学時代のキリスト教学でも学んだので、その胡散臭さのようなものは理解しています。『オカルト的』なものをうまく利用して、人の金銭や魂を騙そうとする手口です。

実際にそういった勧誘を受けたこともありますし、周囲の人間が、巻き込まれてしまったことも学生時代に目の当たりにしました。宗教の怖さのようなものをも感じました。そんなこともあり、どこか宗教とは一歩下がって接していました。

 

この本との出会いで、自分なりの宗教観を整理することができました。

親鸞とイエスの教えは似ている』ということも改めて確認することができました。 

実際に困難場面に遭遇した時に話を黙って聴いて下さった牧師さん。先祖代々信仰している浄土真宗

どちらも、大切にしたいと思います。

 

二つの神を信じるわけにはいかないので、自分の中で信仰の対象は、ようやく絞れているところではありますが、ただ、どちらの教えも大切にしたいと思っています。

これからも機会があれば、礼拝に行くと思いますし浄土真宗の教えについても学びたいと思っています。

 

では、終末にある著者の文章でこの本の自分なりのまとめを締めます。

私たちに与えられた「生きるとき」があと、どれくらいあるかはわからない。しかし、そこにイエス親鸞が見出した充実を少しでも見出すことができれば、それは、まず少なからずわたしたち一人ひとりの救いとなるであろうし、将来に向かっては、きっとわたしたちのつとめが本当は何であるか教えてくれるだろう。