なんだか、学生時代に本をもとにレポートをまとめているような雰囲気になってきました。
いよいよイエスの教えの核心に触れる章です。
1われわれはみな罪人である
洗礼者ヨハネについて
前の章であったように、ユダヤ民族は自己愛的精神を捨てることなく禁欲的に自己保存をはかりそのために神の霊を遠ざけてきました。その間にダビデの時代など地上の繁栄を知った時期もありましたし、バビロン捕囚の敗北も味わいました。
今から2000年ほど前にヨハネという人物が現れます。彼はヨルダンが河岸で「悔い改めなさい。天の国は近づいた」と述べ罪の告白をさせて、人々を天の国に招き始めます。この時代のユダヤはローマ帝国の属国でありローマに対する反発がくすぶり、ユダヤ教もきちんとした形を整えていませんでした。ヨハネはそのような中から現れ「預言者」として次第に認められるようになります。
「マルコによる福音書」の中にヨハネが行っている洗礼の儀式のことが書かれています。ユダヤ教の長老たちだけでなく、その当時の民衆はイエスよりもヨハネの言葉の中に神の権威を認めていたのです。
彼の身なりも生活も質素なものでしたが、彼はあちらこちらからやっていく大勢の人に分け隔てなく自分の罪を告白させ、つづいて水による洗礼を与えていました。そしてその行為を「ある印」として儀式化します。
その洗礼を受けた人が、罪の告白を通してこころを清め、神の国(天の国)に帰ることができるようになった、という印です。
ヨハネが行った、「流水による清め」という考えはインドを中心にアジアで広く知られていること、そして、インドの宗教には罪の告白によるこころの清めという方法がとられ、仏教では初期に「懺悔」と呼ばれた儀式が行われていました。
つまり、ヨハネはインドの宗教、なかでもその当時新しかった仏教の伝道に触れたのではないかと著者は推測しています。
懺悔と天の国
創世記の初めに述べられていた人間理解、天の国から追放された人間がこころの中に持っている「独占欲」「自己愛」「秘密主義」の強い関連性を述べ、それらのうちのどれか一つを徹底的に壊せば他も同時に壊れることがのべられています。
天の国に至る道はイエスの教えにあるように「狭き門」である。人間社会の中で身につけた自己愛にあるもろもろの夾雑物を捨てなければこの門を潜り抜けることはできない。
これが懺悔の意味だと理解しました。
ヨハネが懺悔という方法を知ったとき、彼は「天の国は近づいた」と思ったのです。彼は「創世記」にあるエデンの園でアダムが神のもとでの暮らしを取り戻す道だと直感的に理解したのではないかと著者は推測します。そして、その天の国の門を開けるカギは「罪を告白する」ということであり、それは誰にでも可能な易しい道であったということです
ヨハネの評判について
- 遠い地方からも人々がやってきた
- それまでの預言者がしていたような予言をしなかったらしい
- イエスもヨハネの偉大さを語っていたらしい (大勢の人がどんどん天の国に入っていった)
- ユダヤ教会の中で彼に嫉妬したものも、ヨハネから洗礼を受けてたこと(しかしヨハネは彼らが洗礼を受けてもうわべだけであることを見抜いている)
ヨハネは、自分が「小さきもの」に過ぎないことを知っているので、そういった人々が洗礼に来ても拒まなかったのですが、こころの中ではその形式主義に怒っていたことはマタイによる福音書にも書かれています。
マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを逃れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父(祖先)はアブラハムだ』などと、思ってもみるな
イエスの宣教の始まり
イエスはヨハネから洗礼を受けます。しかし、ユダヤには洗礼を与えることができるものヨハネしかいませんでした。この辺りの「教えを系統的に伝える」ということに関しては仏教の方がこの当時は進んでいたらしいです。
ヨハネがしていた、その資格を得たいと希望していたものの中にイエスもいました。彼はヨハネのもとをさり、修行生活に入ります。
その間にヨハネはガラリアの領主ヘロデに捕まり、牢に入れられ処刑されてしまいます。さて、イエスは、自分もヨハネの一派として捕まるのではないかと恐れ、すぐに一人で国境まで逃げます。しかし、彼は自分の師を見捨てて逃げたことに気づき、おのれの罪を悔いたと推測されます。そして、そのとき彼を救ったのはヨハネが示した「懺悔」であり、そこで初めて神の霊に触れます。
ここから、イエスの宣教が始まります。何人かの弟子を従えてヨハネの教えを広げていきます。彼もまた「懺悔と洗礼」により教えを広げることになります。
著者は、イエスの教えがどれだけ独自のものでありどこからがヨハネか学んだものなのかは現在残っている「福音書」からは分からないとしています。というのも「福音書」の記述があまりのもイエスのことを偏愛していることを示して客観的でないことを挙げています。
「山上の垂訓」もその教えはヨハネが語っていたことの写しかもしれないが、そのことよりもその中に書かれている教えがとても要点を捉えてあることを認めています。
「山上の垂訓」について
人間にとって最も重要なことは、何が本当に幸せなことであるか、ということについて、間違いのない認識を持つことである。
という書き出しで始まります。著者は伝えられている、八つの項目のうち、以下の六つが信頼できるとしています(その根拠も書かれてあります)。
「こころの貧しい人は、幸いである」
「悲しむ人は幸いである」
「魏に飢え渇く人は、幸いである」
「憐み深い人は、幸いである」
「こころの清い人は、幸いである」
「平和を実現する人は、幸いである」
著者の説明を要約すると、
この教えを理解するためには、前提となる「オカルト的(霊的)世界」の理解が必要であるということ、つまり幸いな人とは天の国に神といる人であるということが明らかであるにされています。もちろん、神で天の国に行っているという意味ではありません。神の霊を受けて天の国にある状態であるということです。
以上のことから、幸福かどうかは、その人の目に何が写っているか、つまりその人がどのような自覚を持っているか、ということだけが信頼されるのです。
イエスの「山上の垂訓」を理解するために必要な事実と「山上の垂訓」のようなこころの状態を経験できるなら、それは本当に幸せなことであるとイエスは言っているのである、ということを噛み砕いて説明しています。
そして、より説得力を持たせるために、次の物語を用いて説明を続けます。
姦通した女の物語が教えてくれるもの
有名な姦通した女の話 は「ヨハネによる福音書」の中にあり、この話は、福音書の書き手ではなく後で付け加えれらたものであるらしいということと、話の内容からすると、事実を経験したもの、著者は当の女が語ったことが元になっているのではないかと書かれています。この話はイエスが持っていいた「オカルト的(霊的)世界」を明らかにする重要な逸話と捉えています。
イエスは殺されるかもしれないという覚悟を決め、エルサレムの街に入ります。そこで、イエスの活動を快く思わないユダヤ教会の保守的な人が、イエスの話を聞いている聴衆とイエスの間いに美しい一人の女を引っ張ってきて立たせます。
「先生、この女は姦通をしていた現場で捕まったのです(売春宿と書かれています)。モーセは律法の中で、このようなお女は石を投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところであなたは、どうしますか」。
イエスは黙ってうずくまりました。そして地面に何かを書いたと「福音書」は伝えています。彼はどう答えればよいか困ってしまったのです。小心に見える行為は見方によっては、彼が神の声に耳をすます必要を感じたからとも書かれてあります。このような様子を報告できるのは、実際に目の前にいた人間、つまり恥をさらされ、石で撃ち殺されることを半分覚悟した女がイエスの様子を見て伝えていたのです。
そして、イエスはいいます。イエスは、そのとき、不意に神の答えを知ったのでしょう(自分はこの女に石を投げられるか?)。
「あなた方のなかで、罪を犯したことのない人から、まずこの女に石を投げなさい」
イエスは、大衆を見つめることなく、後ろ向きに再びうずくまります。イエスは結果が怖かったのです。しかし、イエスの言葉を聞くと、年老いたものから、一人一人黙ってその場をさります。この事実が「福音書」に伝えられています。残ったのはイエスと女の二人でした。
そして、誰もその女のこと罰しなかったことを確かめるとイエスはいいます。
「わたしもあなたを罰しない。行きなさい。これからは罪を犯さないように。」
この逸話の事実の分析へと続きます。
イエスが言った「罪がないなら」という条件がポイントになります。イエスは別の場面で「情欲を持って女を見るものは、すでに姦通の罪を犯している」といっています。モーセも十戒のなかで「他人のものを欲してはならない」と定めています。
つまり「罪がないなら」とイエスが言ったときの彼の考えは「こころにおいて、この女を情欲を持って見ていないものは」と言う意味であり、そして、このイエスの考えは、それを聞いていた人々に確実に伝わったのだと考えられます。
人々は、自分が姦通の罪を犯していることを意識せざるをえなかったのです。イエスの問いかけがそのことに気づかせたのです。
自分の罪を棚に上げて、人を罰することはできません。人々は女をゆるすほかなかったのです。
ゆるされることとはどういうことか
女をゆるしたのは、誰であろうか、イエスだろうか?と著者は問いかけます。そしてイエスはあくまでも条件を出しただけで、女をゆるしなさいと言ったわけではありません。そこにいた人々は罰する権利が自分にないことを自覚したのです。
彼らは女をゆるす他なかったのです。
では誰がゆるしたのでしょうか。あり得る答えは「神が」となります。イエスに目を向けると、その向こうにあるものが見えなくなるります。イエスはただ「自分の罪に注意するよう」とのべただけです。しかし、人々はそのように言われたことで、自分の心の中の罪と向き合うことになったのです。
現実に無限にゆるす力は「無限の愛」であり、それは「神の愛」であるということ、だから人々は「神の愛」に逆らうことができなくなります。
そのように、人をゆるすことができるとき、人の心は「安らぎ」を覚えます。この逸話から導き出される結論は
神によって罪を許されたのは、直接には、実は女ではなく、さってい行った人々なのである。女は神によって許された人々によって、許されただけである。
となります。自分が神にゆるされたがために、人をゆるさざるをえなくなる世界である。
ということです。
イエスの教えが示していること
要点だと思われる箇所を書き抜きます。
イエスが示している 救いの論理においては、罪深いほど、これをゆるす神の愛も大きい。言い換えれば、皆が重罪人であるということは、皆が無限の愛である神に招かれているということである。しかし、神の国に入ることができるのは、その罪に気付くことができた人からである。
マルコによる福音書の中にもそのことは書かれてあります。
あなた方によくいっておく。徴税人や娼婦があなたがたより先に神の国に入るであろう。というのは、ヨハネが正しい道を示しびきたのに、あなた方はかれを信じなかったが、徴税人や娼婦は彼を信じたからである。
自分の十字架を背負うこと
ここでは、自分の十字架を背負う意味が書かれてあります。
強烈な文章なので、そのまま引用します。イエスが弟子たちに、伝えたかったことが著者の言葉で語られています。
自分の十字架を背負うとは、十字架刑にかけられるほどの重罪人であることを自覚するように、という意味である。当時は、強盗殺人のような重罪人はまず。ムチで打たれ、十字架を背負わされて町中を歩かされ、円堂の人々からさんざん、あざけりを受けた後。自分が背負った十字架の五体を打ち付けられて、丘の上でさらしものにされながら苦痛のうちに死ぬことになっていた。それは極刑のうちに死ぬことになっていた。それゆえ、自分の十字架を背負うとは、自分が十字架を背負わされ、人々からあざけりを受ける人間であることを知れという意味である。
イエスが捕まったとき、弟子たちは逃げています。以前彼がヨハネに対して同じことをしたので、怒ることはできませんでした。
イエスの最期の言葉は、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたのですか」であったそうです。彼はそう言って自分の肉の痛みの中で死にます。
著者はそんな彼を救われなかった、とは思っていません。
なぜなら、救われる者とは、自分こそ救われない者(罪深き者)と徹底したものに他ならないからである
と、結んであります。背負っている十字架の重みであったり、神に対して、イエスがいう最期の言葉であったり、自分自身のことのように感じることができました。
何はともあれ、イエスの教えの根幹に触れ、物語を読むように読み進めた部分でもあります。「罪」という言葉の意味について深く考えることができました。
懺悔や洗礼はキリスト教オリジナルのものではなく、仏教やインドなどの宗教の影響を受けていたこと、それにヨハネからイエスへと伝えれらたものについても知ることができました。
内容が多くまとめるのに時間も字数もかかりました。ようやく半分です。
じっくり取り組みます!