降誕祭の夜

汝の敵を愛せよ

「イエスと親鸞」を再読して  第三章 イエスの教え(ヨハネからイエスへ) 

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エス事績を伝える四つの「福音書」〜「マタイによる」、「マルコによる」、「ルカによる」「ヨハネによる」
、それぞれの福音書にはイエスの教えとして多くのものが書かれているが、しかし、それは全てがイエス独自のものであるという一般的な理解は疑わしいと書かれてあります。その理由として、

  • 洗礼者ヨハネがイエスの師匠であると同時に当時は民衆の間に大きな名声を得ていた。つまり、ヨハネが「預言者」として信じられていたことには疑いがない。
  • 福音書」そのものがイエスの死後、数世代後になって著作となっていることから、その間に、かなりの混乱とかなりの夾雑物があったことは予想される。

と2点をあげています。

 イエスヨハネの違いについて

  • はっきりと分けるただ一つ特徴は、ヨハネが、町の中に入って、人々とその暮らしを共にすることがなかったらしいこと。それに対してイエスは町の中に入って、出されたぶどう酒を飲み食事も取っていたこと。
  • エスは天の国を、禁欲・苦行とは無関係に語り、町の暮らしのままで天の国に通じる道があると教えながら、金銭取引をともなう町の暮らしを、否定したいた。ヨハネは町の中に入って教えるようなことをせず、自分の所まで来て問う人の、おごることを戒め、自制を勧めていただけだったらしい。

 

続いて福音書の中に書かれていることをもとにヨハネの教えとイエスの教えを著者なりに分けて記述しています。

 ヨハネの教え

  • ヨハネの教えは傲慢の罪に対して厳しかった(特にユダヤ教守旧派の人たちへ)。
  • 良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ(懺悔を通じて己の罪に気付く心)。
  • 憐み深い愛を示すことができるのは、神の愛を当人が受け継いてある証拠である。

ヨハネの思想と福音書の言葉を関連付けながらヨハネの教えを推測しています。

エスの教え

  •  「上着を取られそうになったら、下着まで与えよ」
  • 「人はだれも二人の主人に兼ね仕えることはできない。〜中略〜あなた方は神と富(金銭)とに兼ね仕えることはできない」
  • 「皇帝のものは皇帝に。神のものは神へ」→コイン(金銭)は地上の富であるから皇帝に渡しておけばよい。しかし人間は、神のものであるから、人は皇帝に仕えてならないという意味である(著者の解釈)

つまり、イエスの教えはヨハネに比べると先鋭的であったとまとめています。

 

エスヨハネが示した、懺悔を通して、神の霊を見出しそれを純粋に受け取ることを使命としたこと、そして、ヨハネに替わり、それを徹底的に人に教えることを決意した人であった、と著者は述べています。

エスが、恐れがないはずもなかった状況の中で、決意を翻さなかったのは、イエス自身が神の愛を受け取っていたからであり、彼はヨハネの死という事実だけでなく、ヨハネが教えた神の愛で立ち上がったとあります。

 

エスが、師であるヨハネを裏切ったこと、人を裏切ることの苦しさを知ったイエスが「無限に許してくれている神」を裏切ることは、無限の責め苦を受けることでしかないことを確実に理解したとあります。

具体的例によるイエスの教えの解説

1.「地の塩、世の光であれ」

 嫌われても、強烈な塩味を利かせた人間であれ。そして神の愛を受け生きることができれば、その人のこころは光に満ちる。

2.聖霊の冒瀆

 神の愛(聖霊)を冒瀆するとは、他者の罪をゆるすことができないことであるが、他者の罪をゆるさないものは、そもそも神によってゆるされていないのである。だから「神の愛を冒瀆するものだけはゆるされない」と言われている。

ここの意味は正直難しいですが、他者の罪をゆるすことの大切さを教えているのかと理解しました。

3.「十戒の完成」

 イエスの教えはこころのなかでの罪を問題にすることで、戒律をむしろより厳しくするものであること、つまり、こころで罪が犯されている状態であるとき、実際に罪を犯すかどうかは運しだいである。己が心で犯した罪に気づくことが神の前に向かって顔を上げることであり、神の霊が罪を払ってくれる(ゆるしてくれるという意味かと思います)。そのとき、人は他者の罪をこころからゆすることができ、深い安らぎをこころに得る。エスの教えについて、端的にまとめた、ものすごく大切なところだと思いました。

⒋ 「誓ってはならない」

 『無効となる戒律の一つが誓うということに関してある。』ここは難しかったですが、本当に己の罪に気づけば、人は自分の無力にも気づくことになるはずなので、そんな心境にある人間が、将来のことについて、必ず実行すると誓うということはできないはずだと解釈しました。つまり、神の前に立つ人間には何もないはずだから「誓う」という考えを持つことはあり得ないし、全ては神に委ねられているということなのだと思いました。

 5.為すべきことは何か

 一人の青年がイエスに永遠の命について問答をします。イエスは言います「もし完全になりたいのなら、帰ってあなたの持ち物を売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしについてきなさい。」青年は、ものを捨てることができませんでした。「持ち物を捨てることは自己を捨てること」であり、これができなければ心の罪を理解する用意ができていなかったことを意味すると結ばれています。

6.「悪人に逆らうな」

「悪人に逆らってはならない。右のほおを打たれたら、左のほおをさしだしなささい」「身体を殺しても、魂を殺すことのできないものを恐れることはない」と激しい言葉が続きます。悪人のすることには、抵抗するのではなく、むしろそんなものには価値がないこととを示すのが天の国の住人なのであり、それが地上の本当の平和をもたらすとまとめられています。

7.「裁いてはならない」

「あなたが天の国の住人ならば、あなたは裁くことができないはずだ」

天の国の住人は、善悪の判断を放棄する。つまり自分の罪に気づいている人間であるから、人を裁くことはできないとう意味だと書かれています。反対に人をゆるせず、人を裁くものはその人自身がゆるされず。神によって裁かれていることを意味します。

他者に示すことができる愛(憐み深さ)は、自分が神に愛されていることの証明になる。

8,迷える小羊

「ある人が百頭の羊を飼っていて、そのうちの一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭の羊を山に残して、迷った一頭を捜しに行かないだろうか。そして、もしそれを見つけたなら、その人は迷わなかった九十九等の羊より、その一頭を喜ぶであろう」イエスはこのように神は迷える小さきものを大事にすると教えていたとあります。

 迷った小羊=生き方に迷い、善悪に迷い、罪を犯してしまった無力な人間

神は、このように罪を知るものを喜んで迎えてくれるとイエスは言いたかったとあります。

9.持つものはさらに与えられる

 地上の富も天の国の富も、実際にはより多くものを持った方が、持たないものより多くの利益を得ることができるとイエスは例えたようです。もちろん地上の富と天の国の富とは全く別物であることと、どうやらイエスはこの例え話の中から教えを聞いたら、それを実践に移すことの大切さを伝えたかったようです。

 

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再び「山上の垂訓」

 まとめになります。

第一の垂訓「こころの貧しい人は、幸いである」 

 罪に気づくことは、自分の心に神の愛がないことに気づくことであるから「貧しい」と自覚しますが、そのときこそこころは神の愛に満たされます。

第二の垂訓「悲しむ人は幸いである」

 自分の罪に気付いて悲しい思いをもつとき、すでに神の愛を受け、限りない許しを人は感じ取り、神によって慰められる。

第三の垂訓「義に飢え渇く人は、幸いである」

 自分の罪に気づくことは、神の正義が自分の心に欠乏していることに気づくことである。そのときにこそ、神の義によって満たされる。

第四の垂訓「憐み深い人は、幸いである」

 自分の罪に気付いた人はむしろ神の愛を受けるので、人を心底から憐むことができます。そして憐み深いその人は、実はすでに神から憐みを受けています

第五の垂訓「こころの清い人は、幸いである」

 自分の罪に気づくなら、その人の心は神の愛を受けて澄んだものになります。

第六の垂訓「平和を実現する人は、幸いである」

 自分の罪に気づくなら傲慢や嘘、奪い合う欲がなくなります。それゆえ自然にその人の周りに平和がもたらされます。

ここでイエスの教えについての簡略な説明を終える。

 と、結ばれています。

 

第三章では、ヨハネからイエスへと続く思想の系譜、神の前に立つ意味、自分の罪を自覚することと、他者の罪を許すということ、何よりもイエスも実は自分自身が「迷える小羊」であったことを自覚していたのではないか、だからこそ覚悟を決めて神への信仰をより深め、そして、人々にその教えを伝え広めたのだということが、おぼろげに理解できました。

 

エスの教えについて自分なりに受け止めることができました。