この項は、8項目なので、小見出しごとにできるだけ簡潔にまとめていきます。
あともう一息です!
浄土教の伝来と法然
浄土教は古くからから日本にも紹介されていました。
平安時代に『往生要集』を書いた源信(1017年没)が有名ですが、彼が教えた念仏業は浄土と仏の観想であり、阿弥陀仏の名前を唱える「称名念仏」ではありませんでした。どちらかというと貴族向けであったと書かれてあります。
しかし末法の思想が広がっていた当時の日本では浄土教は大いに迎られ、阿弥陀仏を置く「宇治平等院」や源氏物語の掉尾を飾る「宇治寺十帖」にも源信をモデルとしたと思われる僧が登場するとあります。
源信より少し前、「空也」(972年没)によって「称名念仏」が歌や踊りとともに広められ、貴族の間だけでなく一般庶民にも浄土思想は広がるようになりました。
当時人間界の階級解釈
上品=出家者(出家僧はもっとも仏に近い)
中品=貴族(出家が比較的可能で多額のお布施もできる)
下品=庶民(生きて行くために数々の罪をはたらかかなければならない悪人)
中国の唐の時代に善導(681年没)という僧によって革新的な解釈が行われました。「阿弥陀仏の教える念仏の中で阿弥陀仏が本意としていたのは何よりも「称名念仏」であったという解釈です。そして、善導の浄土教の教えを日本で紹介したのが法然とのことです。
大乗仏教が中国から伝わってきたことは歴史で学んでいましたが、その中の浄土教もそうであったところが具体的に理解できました。
さて法然は最初、比叡山に入り修行をするのですが、出世欲に満ちた当時の仏教界に嫌さして、庶民の間で広まっていた浄土教に惹かれ、これを善導の解釈本のもとに学び、自らの解釈を持って、比叡山から庶民の間に入っていきます。
善導・法然・親鸞
善導の解釈本「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」の中で、法然の心を打ったのは、
「ひたすら一心になって阿弥陀仏の名号を心に念じて暮らすならば、その長さ短さは問題にすることもなく、立派に修行していると見なせる。なぜなら、それこそ阿弥陀仏の請願に沿うことだから」
という言葉であるとあります。
善導の解釈は阿弥陀仏の教えは、むしろ下品のものに向けられたものであり、それが阿弥陀仏の本願なのであるから、下品のものこそ阿弥陀仏の力で救われるというものであった。下品のものとは、浄土や阿弥陀仏、また菩薩たちの観想をよく行うことができないものたちであり、それは、下品下生にきわまる。したがって、「ナムアミダブツ」と唱える称名念仏こそ、阿弥陀仏の本願となる念仏なのだと結論される。
と、解説が続きます。
そして、法然は「善人尚浄土に生まれる。いわんや悪人をや」と語り、その弟子の親鸞も「善人なおもて往生を研ぐ。いわんや悪人をや」と教えます。
筆者は浄土教の教理に関して、善導、法然、親鸞の間に大きな相違があるわけではなく、一続きの流れがあると見ています。それは専修念仏の思想と位置付けています。
しかし、旧仏教界からの反発が大きく、法然は晩年、四国に流罪になり、弟子たちも死罪や流罪、親鸞も新潟へ流罪となります。
破戒と阿弥陀仏の救い
旧仏教界から見て浄土宗の持つ問題は、仏教の5つの戒律の廃棄と結びついたことによるとあります。
五戒とは
- 殺すなかれ
- 盗むなかれ
- 邪淫を行うなかれ
- 偽りを言うなかれ
- 酒を飲むなかれ
と言う、禁止条項です。善導らの解釈のよると犯罪を起こしてしまうような民衆を救おうとすることが阿弥陀仏の本願であったので、仏教の戒律を現実に犯してしまうものこそが阿弥陀仏に救われる、と言うことになります。
しかしそのことを強調して犯罪を起こしても結局は浄土に行けるとか、むしろ悪人であることがあらわになることにより、阿弥陀仏の救いの対象にまちがいなくなると解釈をし、わざと飲酒や邪婬のの罪を犯すものが現れてきました。
しかし、そうであっても、罪を犯したものは阿弥陀仏の助けが得られないと言うことは、浄土宗の立場では言えないと言う意味のことが書かれてあります。
法然の教えを聞き、欲望を持ちそれを満たすことに喜びを見出していた庶民の中にそれを逆手にとって、欲望とその満足を阿弥陀仏の本願とまで主張するものが出てきたのです。
こういったところが旧仏教界からの反発を招きます。
欲望とその満足とは、シャカがそれを止滅されることが、もろもろの苦を逃れる道で見つけたものであり、欲望の積極的是認はその逆になる。だから、善導の解釈が導いた浄土宗の教えは、受忍の限度を超えた。
しかし、時は乱世です。罪深い生活を余儀なくされた庶民にとっては、法然の教えが救いになったことも事実です。生き残るために、殺生、売春もちまたにあふれています。多くの庶民が法然の浄土宗に帰依します。この人気も旧仏教界の反発を引き起こします。
旧仏教界の反発を引き起こした原因は、戒律の廃棄と民衆からの絶大な人気にあると言うことです。
イエスの教えとの相違
この部分はとても長いので、心に残った要点だけをまとめます。
ヨハネやイエスの教えも自分の犯した罪を認めることで天の国へ行けるとしたという点であり、浄土宗の教えと似ている部分ですが、ヨハネやイエスの周りで法然は親鸞の周りで起きたような問題は起きませんでした。
それは、かれらは心の罪を問題にすることができたので、旧来の戒律がゆるめられると言う解釈が起きてこなかったからと説明されています。
しかし、仏教は戒律はありましたが、あくまでも物理的なものであり、心の中の罪を問題にしていませんでした。シャカが合理主義的で現実主義的であったことから、仏教は本来現実主義とあります。
阿弥陀仏の救いにあずかるためためには、実際の破壊が前提になる。しかし、欲望の満足を求める人間にとっては、それが格好の言い訳になってしまうのである。
と、いう点に対して、親鸞は、
「くすりがあるからといって毒を求めるようなことはするな」と戒めます。しかし、なかなか十分や抑制にならなかったようです。著者は、浄土宗がこの問題を完全に解決する道を理屈の上で見出すことは困難であったとしています。
しかし、親鸞が提示した「他力の宗旨」により答えが提示できるとあります。
要するに、自分が阿弥陀仏の救いの対象となるために自力で何事かを為そうとすること(わざと悪事を行うこと)は阿弥陀仏の持つ力という、「他力」に頼む心が欠けているということになると説明しています。
他力本願の徹底ということから「こころの態度」についてへの解説へと続きます。
親鸞のあゆみ
〜この本もいつか読まなくちゃ〜
親鸞は、長生きで、90歳まで行きます。時系列で書かれていたので、彼の一生をたどっていいきます。
1173年 京都の中流貴族の家に生まれる(12年後に平家滅亡)
1207年 法然と親鸞はそれぞれ別々の場所に流罪(その時がお互いの顔を見る最後となる)
- 35歳から42歳まで〜流罪を許されてもその地にとどまる
- 妻をもち、子をもった(妻帯は出家僧の戒律を破ること)
親鸞は、妻帯することで、自ら破戒僧となり在家の身になります。これは。法然の「専修念仏」の教えである「在家のための教え」に通ずる道、つまり在家が在家に仏教を伝えるという在家仏教の理想の完成形ともいえる、と著者はまとめています。
1114年 弟子仲間の手紙に触発されて、関東に出て、専修念仏を広める(約20年)
1135年 60歳を超えた親鸞は京都に帰り妻子と別れ著作に没頭する。
- 主な作品「教行信証」
- 90歳で死ぬ
教え子らの混乱
冒頭に、
「在家仏教」を完成した親鸞であるが、しかしそれはまた、仏祖の伝統、つまり教えを伝えていくことについてルールを見失うことににもなった。
とあります。親鸞は、徹底した在家仏教を完成したのですが、その権威のや思想の維持を伝えることにはあまり考えていなかったのではないかと説明されています。
親鸞もイエスも先行者の思想を徹底し、先鋭化したのです。そのため親鸞の場合は弟子の間に混乱が起き、イエスの場合は後継者を見出すことなく、十字架形となったのです。
二人とも、実践者であり、その生き方を示すことにより、自分の考えを伝えようとしたのだと思います。しかし、そこがなかなかうまく伝わっていなかったことが書かれてあります。
歎異抄の背景
親鸞の教えは、残念ながら、彼が生きているときにも大きな混乱が起きていて、さらに彼の死混乱に拍車がかかります。
そのことを嘆いた親鸞の弟子であった一人の老僧「唯円」が、自分が直接親鸞から聞いたことを、死ぬ前にしっかりと紙に残さなければと決意して書かれたものが「歎異抄」ということです。
著者はこの書物の価値を非常に高く評価しています。
歎異抄は、歴史でも学びましたが、その内容や背景までは知らなかったので、勉強になった部分です。
信仰のパラドクス
「歎異抄」の第2節に、唯円が若い頃、他の弟子たちと京都に帰ってしまった親鸞を関東から訪ねたときのエピソードです。
往生極楽の道を聞き出すために訪れた弟子たちに、親鸞は、
「念仏が浄土に生まれる縁となるかどうか、あるいは、地獄に落ちるべき業縁となるべきものであるかどうか、いずれにしろ、わたしはどちらも知らないのです」
と言います。
続けて、親鸞が念仏をしてきた理由を、親鸞の言葉と著者の言葉でまとめています。
言い換えた著者の言葉を書きます。
親鸞は法然の浄土宗に出会うまで、様々な修行をしてきた。しかし、悟りを開くことはできなかった。したがって、他にすがるものがない身だったのである。したがって、悪いのは自分の身であって、法然の教えではない。むしろ法然の教えに救われてあるのだから、死後に地獄に落ちても何を後悔するだろう。自分はもともと地獄行きでしかなかったのであって、地獄行きは念仏のせいではない、というのである。
ものすごい覚悟です。
自己決定を迫る
親鸞は、次のように語り、訪ねてきた弟子たちに自己決定を迫ります。
「阿弥陀仏の本願が本当のことであるなら。シャカの説教は嘘ではない。シャカの説教がほんとうのことであるなら、善導がなさった解釈は嘘ではあり得ない。善導の解釈がほんとうならば、法然がおっしゃったことがそらごとになるだろうか。法然がおっしゃったことがほんとうであるならば、この親鸞が申すことは、果たして虚しいことになるだろうか。思い返して考えてみるところ、こういうことであるから、往々の道として念仏を選んで信じるのも、またそれを捨てるのも、それぞれのお考えになされたらよろしい」
と。
親鸞がしたような覚悟や決断が弟子たちはできずにいるのです。しかし、親鸞は指導的立場にありながら、自分の信心への忠誠ゆえ指導的立場になることを拒絶していると解釈しました。
親鸞は他人も自分と同じように、念仏を知ればひとりでに阿弥陀仏の救いに気づくことができると信じていますが、残念ながら、その念仏の決意の意味が伝わっていないことを著者は説明しています。親鸞の思いが訪問者である弟子たちは「分からない」のです。著者は、「すれ違い」とも表現しています。
その親鸞の「思い」については次の項で解説されます。