降誕祭の夜

汝の敵を愛せよ

「イエスと親鸞」を再読して  第五章 幸福とは何か

いよいよ最後の章になりました。途中の見出しは、自分なりにつけてみました。

イエスと親鸞 (講談社選書メチエ)

イエスと親鸞 (講談社選書メチエ)

  • 作者:八木 雄二
  • 発売日: 2002/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 シャカの悟りと浄土宗

最初にシャカが悟りを開いたことから浄土教の教えの関連が説明されます。著者の本文を引用します。

阿弥陀仏にすがって、極悪人の自覚を持つことが真実の自己を見い出すことであるならば、浄土宗は実に「巧妙な手段」でシャカの悟りをもたらしていることになる。しかも、事実がこういうことであるなら、シャカの悟りの内実が浄土宗を通じて、シャカ自身の説明になかったところまで明らかにされているはずである。

前の項でも示されていたところです。シャカが到達した悟りの境地を誰にでも分かる方法で到達することができるようにした考え方が『浄土教』であるということの再確認だと思います。

 

浄土宗とイエスの教えの共通性

1 救われるべき人間の類似性

  •  浄土宗〜「下品=悪人=罪人」
  •  ヨハネ・イエスの教え〜罪を自覚させ、罪人を救う神の愛 

2 二つの宗教の成立の時期

  •  浄土経典が成立した西暦元前後は、キリスト教の原点の時代でもある。

3 親鸞とイエスが人々に伝えたこと

  •  親鸞〜念仏の決意を通して人々に「極悪人の自覚」を期待する
  •  イエス〜弟子に「重罪人の自覚」を求めた

4 善悪の知識についての類似

  • プラトン哲学(ソクラテス)における善美の知識の位置と天の国の善悪の知識の木の実の話は似ているものである(人間の手の届かないところにあるということ)。
  • 親鸞も「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」と善悪の知識に対する無知を自覚している。

極悪人と仏陀の間にあるもの

自分は仏陀であると思ったとたん、その人は、ただの極悪人に舞い戻る。なぜなら仏陀は最良の存在であり、自分がその仏陀であると自覚するなら、今度は、自分が殺されるのは不当であり、持ち物を奪われるのも不当だ、ということになるからである。

自分が最良(仏陀)の存在である認識したら、実はそれは最悪(極悪人)の存在になることだと思います。本当の天才や知識のある方は、それを公言したりしないことと同じ意味だと解釈しました。

「最悪の存在の自覚を持つことが、最良の存在である」というこの矛盾を親鸞阿弥陀仏の不思議な力を介在させて説明しています。

極悪人の自覚を持っていた親鸞は、阿弥陀仏の他力に感謝していたということです。そして、重罪人の自覚を持っていたイエスが神の無限の愛を受け、その「神のゆるし」に対して、感謝したことも説明されています。

 

続いて親鸞における「極悪人の自覚」とイエスの「重罪人の自覚」について、まとめの章らしく、簡潔に書かれています。

この辺りから、親鸞とイエスの似ている点がどんどん書かれていきます。

 

著者は、親鸞とイエス、どちらの自覚も、真実の自分を見い出す自覚であり、そのことにより、他者を憎む思いも失い、安らぎを得ることができるとまとめています。

 

 エスの自覚について

ganju39.hatenablog.com

  親鸞の自覚について

ganju39.hatenablog.com

 イエス親鸞

ここからは、この本のクライマックスで、親鸞とイエスについての類似点だけではなく、その思想の奥深さや、二人が求めた幸福の姿が書き綴られていきます。印象に残ったことを引用したり、感想を書いたりして一気にまとめます!

仏教から見れば、重罪人の自覚を持ったイエスは、正しい自己理解を得ている仏陀である。他方、極悪人と自覚した親鸞は、イエスの目から見れば、神にそれだけ深く許されている神の子である。また、親鸞に置いて、極悪人であるという自覚がある限りの救いであるように、イエスにおいても、罪人であるという自覚がある限りの救いである。

とうとう、ゴールにたどり着いたような著者の説明ですが、著者は、「この普遍性は客観的に対象化してとらえることは、不可能である。」と書いています。「自ら体験し、自ら味わう以外にない。」としています。

著者は、哲学者としてどちらの宗教的立場にも立たないでこの本を書いています。誠実に二つの宗教家に向き合い文献を読み、この本を書き進めた著者の想いが現れています。

 

私も生まれた家が浄土真宗ではありましたが、両親に念仏のことをお盆や葬儀などの時に言われ手を合わせるぐらいの信心でしたし、キリスト教にしても、たまたま入った大学でキリスト教学を学ばさるをえなかった(単位の関係で)という程度の理解です。

 

自分が困難なことに直面し、本当に誰にも相談できずに暑い街の中を寒気すら感じて彷徨うように歩いていた4年前の夏。ふと、目に入った教会の門をたたき、牧師さんに自分の境遇を話し祈っていただいた2時間余りの時間が実は、自分にとっての本当の意味での「宗教との出会い」であったような気がしています。それ以来、月に何回かは礼拝に行くようになり、節目では、牧師さんのところを何度か訪ねたりしました。

 

さて、本に戻ります。最後は「笑い」の話から「聖人の笑い」と「幸福」について、そして本当のこの本のゴールへと進みます。

永遠的な幸福の中で

親鸞とイエスは永遠的な幸福にいたと書かれています。彼らは「悲しみ」を語ります。イエスがいう「憐み」や「悲しみ」は、通常の悲しみではなく、「自分が罪深いということからくる自分に対する憐み」であり、「その事実を受け止めることからくる、自分ではどうにでもならない悲しみ」であるとしています。親鸞についても同様の説明がなされています

 そして、親鸞もイエスもその中にいるのです。

自己の喪失によって、初めて人は、神や阿弥陀仏の力に出合う。そこでますます自己の無力に気づいてがっかりする。その意味では、喜びなどないのである。他方、苦悩は消える。天上の「幸福」を感じる。あるいは安らぎを覚える。それは他人が言っている幸福とは違うものである。そして、こうなったときにはっきりすることは、世の中の常識のばからしさである。

 自己の喪失とは浄土宗の立場であれば「極悪人と自覚すること」でありキリスト教であれば「重罪人として自覚すること」であることだと思います。

 

世俗の幸福を私は捨てることはできません。本にあるように生活必需品であったり、住む場所であったり、そして、食べなくては生きていけません。それは、実は「何かを奪って生きていること=極悪人」ということを人々は(私もですが)、自覚していないのでないか、だから「世の中の常識のばからしさ」と著者は、強い言葉で表したのだと思います。

 

幸福とは特別な状態ではないと続きます。自己の喪失(重罪人であること)から見えてくる真実では、人間はもともと幸福だと説明されています。それは、自己をしっかり見ることができることにより、真っ直ぐにものが見えている状態であるからなそうです。

不幸こそ、特別の事態であり、そのとき人は、真っ直ぐにものが見えなくなっている状態です。つまり自己をしっかり見ることができていない状態ということでしょうか。

幸福と不幸な状態について、具体的な説明やそれに対するイエス親鸞の立場が著者なりの解説で続きます。

宗教について

最後は、哲学者としての著者の考えが盛り込まれ、内容的にもかなり難しいです。読み直しましたが、まとめることはできませんでした。

 

ラストの部分では、イエス親鸞が戦った不幸の本質とその戦い方であったり、マルクスの立場「宗教はアヘンであり・・・」が引用されたりします。

 

著者は親鸞とイエスを人間社会に対するラジカルな革命家としています。ただし、集団的な戦線を作ったりしません。彼らの敵は自分を見ようとしない自分であるからです。

 

そして、哲学者が語る「不安」についても説明されます。近代の啓蒙主義デカルトヴォルテール、ルソーやカント、ヘーゲル、現代のキルケゴールニーチェハイデッガーも登場します。一人ひとりの思想の解説はないですが彼らが語る「不安」をなんとなく著者は批判しているようにも読み取れるところが出てきます。ここでは深く触れません。

 

話は変わって、新興宗教については、高校時代の倫理社会や大学時代のキリスト教学でも学んだので、その胡散臭さのようなものは理解しています。『オカルト的』なものをうまく利用して、人の金銭や魂を騙そうとする手口です。

実際にそういった勧誘を受けたこともありますし、周囲の人間が、巻き込まれてしまったことも学生時代に目の当たりにしました。宗教の怖さのようなものをも感じました。そんなこともあり、どこか宗教とは一歩下がって接していました。

 

この本との出会いで、自分なりの宗教観を整理することができました。

親鸞とイエスの教えは似ている』ということも改めて確認することができました。 

実際に困難場面に遭遇した時に話を黙って聴いて下さった牧師さん。先祖代々信仰している浄土真宗

どちらも、大切にしたいと思います。

 

二つの神を信じるわけにはいかないので、自分の中で信仰の対象は、ようやく絞れているところではありますが、ただ、どちらの教えも大切にしたいと思っています。

これからも機会があれば、礼拝に行くと思いますし浄土真宗の教えについても学びたいと思っています。

 

では、終末にある著者の文章でこの本の自分なりのまとめを締めます。

私たちに与えられた「生きるとき」があと、どれくらいあるかはわからない。しかし、そこにイエス親鸞が見出した充実を少しでも見出すことができれば、それは、まず少なからずわたしたち一人ひとりの救いとなるであろうし、将来に向かっては、きっとわたしたちのつとめが本当は何であるか教えてくれるだろう。

 

道 宇多田ヒカル

 

Fantôme

今まで自分が歩んできた道。

そして現在の自分。

これから自分が歩んでいく未知なる道。

 

宇多田ヒカルは、automaticでデビューした時からずっと好きなアーティストで、CDも結構買っています。

このアルバムは彼女の若い頃のポップなものと違い、しっとりとした味わい深い曲が多かったです。

 

『道』と聞くと高村光太郎の『道程』を思い出します。

中学生の時に国語の時間に学習しました。

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のためこの遠い道程のため

今、『イエス親鸞』という本のことをまとめているところなのですが、

まとめながら、今までの自分の生きていきた人生を振り返り、現在の自分の状況、

そして、これからの人生を考えると、心に浮かんでくる言葉は『道』です。

宇多田ヒカルの『道』は歌詞も旋律も味わい深いです。

 今週は、この曲で〆ます。


宇多田ヒカル 2018 道

 

「イエスと親鸞」を再読し 第四章 親鸞の教え(『歎異抄』を読む) 

 『歎異抄』の解説のこの項が、今までの各章の項の中で一番ページ数が多いです。できるだけ工夫してまとめます。

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函館でとった浄土真宗のお寺の写真

歎異抄』(1)教えの核心

著者は前の項で弟子たちが「分からない」でいることに同情しています。というのも「念仏のみ」と教えられては分からなくて当然と書いています。

ここから親鸞の考えを明らかにするとあります。著者は第一番に挙げた節の最初の行に注目しています。

その一文とは(訳は省略しました)

(1)弥陀の請願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるとなりと信じて、

  (第一段は浄土経典の中身を信じることを前提としている)

(2)念仏もうさんと思い立つ心の起こるとき、

  (第2段は、ひるがえって念仏を実践する決意を持つことを述べている。)

(3)すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。

  (第3段は、結果として阿弥陀仏の救いにあずかり、往生を遂げることができるという)

 

この一文で親鸞は、それを信じて念仏をする決意を下すと、結果として悟りを開くことができると言っているという意味なそうです。『それ』とは、極楽浄土のことでもあり、浄土経典に伝えられているシャカの念仏の教えのことだと思います。著者は霊的な世界であり物理的現実ではないと述べています。

 

輪廻転生について

『往生をとげる』とはこの世とのつながりを振り切って、解脱すること意味します。

そして往生するためには精神的解脱が必要であると説明が続き、輪廻転生の教義へと続きます。輪廻転生とは、死んでも、魂がこの世から離れないことで他の身体についてしまうことで生々流転が起きという意味です。

しかし、この世への執着がないのならば、魂は、その生々流転の輪から解脱できます。つまり浄土に行くことができるということです。

往生が決定する=執着から離れる=仏の悟りを得る

生きている一瞬一瞬が、実は死の間際であること。そのように見定めることができるのなら、どの一瞬においても阿弥陀仏の助けを得て往生が決定する可能性がある。有為転変(ういてんぺん)この世のなんであれ、常に同じものはない

 親鸞が言いたかったことは、人は、一瞬でも解脱して救われることを知らなければならないし、そのためには念仏の決意が必要なのであること、念仏を申し上げようと思い立つこころが起こることによって、解脱が一瞬一瞬可能だということと著者は、まとめています。

 

ここは、ストンと心に落ちたところです。祖母が亡くなったときに、葬儀の際に和尚さんが最後のお話で「おばあさまも、前世の行いから生前は様々な苦労があったと思いますが、南無阿弥陀仏を信じたことにより、その輪から離れ、極楽浄土へと向かわれました」と言ったようお話をしてくださったこと思い出しました。

 

念仏の決意と輪廻転生との関わり

念仏の決意とは浄土経典の一つ「観無量寿経」に書かれています。念仏をしなければ救われないものとは下品下生であります。言い換えれば、平気で親でも殺す極悪人です。それゆえ念仏の決意とは「自分がそのような極悪人であると自覚すること」を意味するとのことです。

親殺しがどうして極悪人かということと、誰でも極悪人であることは、仏教の世界観である輪廻転生を用いて説明されています。

考えると人間は他の生き物の命を奪って生きている限り、人間は、平気で親を殺す暮らしから逃れられない(いただいている命が自分の親かもしれないということ)。だから人間は仏から見れば誰でも極悪人なのである。

 

極悪人の自覚を持つこと=すべての執着を捨て解脱すること

その時に、阿弥陀仏を信じ極楽浄土を信じて念仏をする人を救ってくれると親鸞は説明をしているとあります。 

他力本願とは

念仏とは、阿弥陀仏の力にすがることであるから、他力本願の信心であるが、念仏の決意は「自力」であるという意味は、

他力本願とは、決して甘えた考え方ではなく、その前提として「醜い自分の姿、極悪人である自分、無力である自分」自覚した上で、自分は念仏をしなければ往生できないと知ること

このことから、浄土真宗が他力本願と言われながら、実は自力の重大さ、自己を頼むことを第一とするシャカの教えの伝統が伝わっていることが分かりました。

 

他力の真意についての説明は、著者の解釈の説明もあり、理解するのに苦労したところですが著者が伝えたかったのは、

 

発意においては自力でも、念仏は他力本願でなければならない

 いうところのようです。

 「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるのではなく、その前の心の在り方が大切だと理解しました。

 歎異抄(3)

法然から受け取った教えについてです。解説のみ書き出します。

出家僧は上品の部類にあり、古来、修行により往生できることが約束されている。しかし、浄土宗は、さらに中品のもの、すなわち、貴族も出家していないにも関わらず念仏によって往生できると約束するものである。そのように、善人と言われる貴族が在家のまま往生できるのなら、悪人と言われる下品の庶民は、なおさらのこと往生できるはずである〜以下略〜

 『歎異抄』(4)

仏の慈悲には聖道と浄土の違いがあることについての解説です。

聖道とは、自力で仏陀となる道です。その慈悲は、ものをあわれみ、悲しみ、育むものです。まことに聖人の示す慈悲です。自我を捨て、どんな人であろうと、それをあわれみ、大事にして、いくものです。しかし、そのようにすることは、なかなかできるものではありません。

他方、浄土を目指す浄土宗の慈悲とはそもかく、先に念仏して、それによって急いで、ますは自分が仏となって、仏が持つ広大な慈悲を持って、自由自在に人々を助けることをいう

 と説明されています。

 

聖道と浄土の区別は親鸞法然を通じて受けた区別であることのことです。ただし、「仏教の立場として聖道も浄土、どちらも「自分が仏陀となることにとよって真の救いが可能になる」というのはどの宗派でも同じであるとのことです。

仏教は、自分が救われることによって人を救うことができるという考えの宗教です。そして、ここで、キリスト教と仏教の違いが著者の言葉で表されています。

 

キリスト教は他者救済において自己救済が実現するが、仏教では、自己救済ののちに他者救済が可能となる。

 

歎異抄』(5)

解説のみ引用します。

親兄弟であろうと、恋人であろうと、念仏によって特定のだれかを救おうなどと考えては、解脱はできない。念仏の力は、自分の力ではなく、阿弥陀仏の力だからである。だれが救われるかも、阿弥陀仏のお力しだいであると知らなければならない。

歎異抄』(6)

解説のみ引用します。

ここには、念仏行における行者の平等が主要されている。みなが仏の弟子であって、個人の弟子ではない。人間の間での師弟関係は仮のものでしかない。しかし、その中でもたまたま出会った師が自分に仏の道を教えてくれた恩を覚えることは否定はしない。それはありがたい良縁であるのだから。

歎異抄(7)

念仏の行は、妨げることがない道である。その理由は、その業者に対しては、天の神も血の紙も敬意を持って身を伏せ、悪魔も外道すらも、邪魔だてすることができないからである。〜以下略〜

親鸞のいう念仏は、念仏を決意すること、つまり、極悪人を自覚することだから、誰も邪魔をすることはできない。誰の助けもいらない、自分のこころだけで十分という意味のことが書かれてます。

 

この小見出しの部分で印象に残ったのは、

「極悪人と自覚するなら、自分が悪行をはたらいてしまても、またどんな悪いことが引き続いても極悪人の自分には当然の報いであって、予想もしなかった報いと感じることはない。なぜなら、極悪人という自覚によってこの世との縁が切れているからである。」

という、著者による解説の部分です。 輪廻転生のことと、その輪から離れ浄土に行くことの意味だと思います。この境地に達する道として念仏のことを次のようにまとめています。

念仏をして仏となる道は、善行も及ぶことがない「無碍の一道」と言われるのである。

 

歎異抄(8)

念仏は他力ですることが書かれています。

著者の解説より

念仏は善行であると思ってすると、それは自力の念仏となる。したがって、善行を行うつもりで念仏をしてはならない。〜中略〜いずれの思いも捨て去ることができたとき、はじめて本当お念仏になるのである。

歎異抄(9)

唯円が、親鸞に対して、

「念仏は申し上げていますが、心が沸き立つような喜びがありません。また、急いで浄土に行きたいという思いがでてこないのは、」私の信心に間違いがあるのでしょうか」と尋ねます。

親鸞の答えはとても長いので著者は、

親鸞は、それは煩悩のせいであると言う。そして、煩悩があればこそ、阿弥陀仏のたすけが得られるのだ。

と、説明しています。

悟りの境地は「悲しみ」とは

 仏陀の喜びは、本来の意味で善美を判断の基準とする喜びである。欲望の満足という喜びではない。それは喜びと言うよりも、善美が与えてくれる感動に打たれることである。そして、それは「悲しみ」という言葉に近い感情なのである。

 ここは納得しました。自分が極悪人として自覚しているのに湧き上がるような喜びの気持ちになるはずがありません。煩悩ゆえの喜びしか私たちが知らないことを逆説的に親鸞は伝えていると読み取りました。

 

歎異抄(10)

念仏の本質的な意味が書かれています。

念仏は、無義であることが、その意義である。意義をもって善と名づけることもできず、その意義を説明することもできず、考えることもできないから。

「 念仏は、善としてなされる行ではない。極悪人という自覚のもとに、致し方なく、ほかになす術もなく、仏から賜った行として行われる行である。」

 

 なんだか涙が出そうです。

 

歎異抄(13)

 唯円親鸞の問答から親鸞が教えの核心に触れる話をします。

親鸞が、唯円に「わたしの言うことを信じるか」と問われ、当然「信じます」と答えます。

そうすると親鸞はこう言います。

「それでは、人を1000人殺してくれないか。そうすれば、前の往々は確実になるだろう」

それはできないという唯円親鸞は、

「それでは。なぜ先ほど。親鸞のいうことには逆らわない、と申したのか」と話します。

唯円は答えることはできません。親鸞のいうことは何でも信じると言ったのに、恨み一つない人を殺すことができるわけがありません。

親鸞が言います。

「人間は、何事も心にまかせてできるのならば、往生のためだから人を1000人殺せといわれれば、すぐさま殺すことができるだろう。お前が殺すことができなかったのは、一人を殺す業縁がなかったゆえなのである。自分の心が善であるから、人を殺さないでいられるのでない。〜以下略〜」

時は乱世です。戦争となれば善人と言われていた人が、たくさんの人を殺すこともあります。それはその人の心が悪いからではなく、戦争という状況がそのような縁を作っているということであり、殺さなかった場合はその逆になります。

人は、自分の行為は自分の意思の決断ひとつで行われるものであると思い込んでいるます。しかし、それは自分の力を奢っていると説明しています。

 

業縁を切るとは

阿弥陀仏を信じて念仏をするということは、極悪人であると自覚することであり、そしてこの自覚は業縁を切る。

仏教の罪の考え方として、罪というものは、例外なく悪い縁によるもので、個人の意思によるものでないこと、人間は自分で決めていると思い込んでいるが、それは、単なる思い込みで幻想であること、そして、その悪縁は執着(欲望)から生まれるということがまず書かれています。

そして、これを断つことがもとから罪をほろぼすことになります。自分の欲望(執着)から自由であるとき人は本当に自分の判断を下します。それが本当の善悪、美醜を自分の原点とすることができるという説明されています。

 

「運任せの」の人生を捨てるとは

だからと言って、縁に任せてしますことは、人生を運任せにしてしまうことになる。縁に引きずられた生き方を続ける限り、悪人になるのも善人になるのも、ただの運であるので、己を捨てるためにはブッダになる必要がある。

悪縁を切る仏縁は誰にでも開かれています。その状態になる他の方法の一つとしての浄土真宗の教えなのだと思いました。

 自己認識が全てを決める

最後の小見出しです。

親鸞の教えの本質は簡潔なものではあるのだが、簡単に済まないのは、教えは簡潔でもそれを学び取ることは即座にできないからである、そして、宗教の本質は自己改革である。

著者の宗教に関するまとめでもあると思います。

考え方を変えるということは、生き方を変えるということにもつながるのでしょう。

 

教えが単純でも、結果が違うのは自己認識が違うからと説明せれています。

もっている欲望を自己自身として肯定するか。それともそれを否定して別の自己自信を見出すか。前者の道を選べば縁につながって争いながらの人生になり、後者であれば、縁をたちきり、真実の事故に目覚め、善美の基準で生きていく人生がある。

親鸞が教えた浄土真宗は、阿弥陀仏の助けを信じることで。その縁切りを容易にするもので、それは、釈迦の教えを結果的に実現するものである。

 

この項では、歎異抄を手掛かりに、親鸞の教えに触れることができました。著者は、一つの物事をわかりやすく説明するために、要点をわかりやすくまとめたり根拠となる文献を示したりしています。また、違う視点から同じ物事を書いたり、例え話を入れたりして説明をしています。

 

第4章の中の、この最後の項は、親鸞のことを歎異抄からまとめていますが、イエス親鸞の生き方をくらべたり、仏教の教えをシャカからのつながりの中で説明したりしてました。

 

また、最終章へのつなぎとなる、とても重要な役割を果たしています。

 

歎異抄をひらく

歎異抄をひらく

  • 作者:高森 顕徹
  • 発売日: 2008/03/03
  • メディア: 単行本
 
私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)

私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)

  • 作者:五木 寛之
  • 発売日: 2014/04/03
  • メディア: 文庫
 
歎異抄 (岩波文庫)

歎異抄 (岩波文庫)

 

この本のことをまとめていたら、歎異抄を読んでみたくなりました。調べてみたら、何種類かあるようなので、書評を参考にして選びたいと思います。本屋さんにあるかなぁ。

 

くちばしにチェリー  EGO-WRAPPIN'

10年以上前にたまたま、この曲に出会い、

そしてEGO-WRAPPIN' というグループを知りました。

楽器をかじったことがある人なら、絶対ハマるサウンドだと思います。

私は、中学生の時にブラスバンドでフルートをしていました。

この曲では、フルートもかっこよく入ってきます。


EGO-WRAPPIN'『くちばしにチェリー』

とにかく、かっこいいです。

ヴォーカルの歌唱力もたまりませんし、曲の雰囲気も最高です。

このグループの中で、一番お気に入りの曲かもしれません。

くちばしにチェリー

このアルバムに入っています。

オープニング『BIG NOISE FROM WINNETKA~黒アリのマーチングバンド』から『くちばしにチェリー』へと続くところがこのアルバムの中で一番のお気に入りです!ゾクゾクします。

 

Wikipediaより

1996年、大阪で結成されたユニットで、メンバーはともに大阪府出身の中納良恵(Vo、作詞作曲)と森雅樹(G、作曲)[2]。結成時から長らく関西を中心にクラブライブハウスでの活動を続けていたが、現在は東京に拠点を置いている[3][4][5]

ユニット名の「EGO-WRAPPIN'」という言葉は、彼らが好きなアーティスト、デ・ラ・ソウルが、インタビューの中で「最近の若者はEGO-WRAPPIN'が多い」と発言しているのを聞いて付けた。インタビューでは「自分を出さない」という例えで使っていたが、二人は「エゴを包む」とも取れるこの言葉を気に入ってユニット名にした。[6]

多様なジャンルをクロスオーバーしたサウンドで独自の音楽性を築き上げている[7][8]

戦前のジャズから自然に行き着いたキャバレー音楽や昭和歌謡を消化してエゴ独自の世界観を築きあげた2000年発表の「色彩のブルース」はインディーズながら異例のロングヒットとなり、その名を全国区で知られるきっかけとなる[2][4]

活動は国内にとどまらず、ヨーロッパアジアフェスにも出演するなど海外でもライブ活動を行っている[7]

 よい夢を!おやすみなさい。

 

NO MUSIC, NO LIFE そんな1日を振り返って

以前、岩手県内のマラソン大会の募集があったことをブログに書きました。

しばらく様子を見ていたのですが、やはり、どの大会も中止になっています。岩手県だけでなく、他の都道府県の大会もほぼ中止のようです。

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来年は走りたいなぁ

私の場合は、大会に出ることよりも、体型維持と【無】になって走る心地よさが走る目的なので、大会の中止でモチベーションが下がるわけではないのですが、それでもフルマラソンの大会があると、それを目標に自分なりに練習メニューは組みます。なので、今年は、それほど追い込んだ練習はしていません。ペースはいつものんびりで、休日も走って15キロまでです。

 

でも、今日は、久しぶりに20キロ走りました。あまり暑くもなかったですし、ちょっとクタクタになりたい気分でしたので、がんばりました。やはり15キロ走るより、5キロ長いとかなりへばります。汗の量もすごくて、久しぶりに体重は60キロ切りました。

 

夜、その分呑むので、体重は戻るのですが、達成感はあります(笑)。

日曜日だけは、15キロ以上走るのでBGMは必須です。もちろん、道路を走るので、車や周囲の音がしっかり聞こえるくらいの音量にしています。交通量の少ないところを選んで走ってはいますが、周囲に迷惑をかけないように気をつけています。

 

 

今日のBGMは、前半の10キロはアルゲリッチのピアノコンチェルトの演奏で、ラフマニノフの3番とチャイコフスキーの1番を聞きました。ラフマニノフの3番は、本当にピアノが主の曲です。2番は自分の中では『冬の雪原』『透き通った湖面』のようなイメージです。3番は、ピアノが本当に派手なのですが、曲の雰囲気は2番とは違って大陸の雄大さやロシアの土着というか民謡的な雰囲気が感じられるような曲です。

アルゲリッチのピアノは、神懸っています。いつ聴いても凄みがあります!

 

チャイコフスキーの1番も良い演奏で、このCDは、お気に入りの一枚です。

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

 

後半の10キロは、ユーミンのプレイリストを聴きました。ユーミンは、どの曲も思い出に残っているので、歌詞やメロディを味わいながら聞きました。

ラスト2キロくらいのところで、「あの日に帰りたい」が流れて、なんだかうれしかったです。


荒井由実 あの日に帰りたい

 

午後は、ブログとピアノにじっくり取り組もうと思っていたので、

まず、先週、少しずつまとめていた読書の記録を読み直してブログにあげました。

 

そのあとは、ピアノの練習です。

ワルツの14番を3回繰り返して弾きました。テンポを上げると楽譜に目が追いつかなくなります。苦手なところを再確認できたので、焦らずに取り組みます。

 

そしてアラベスクは、土曜日のレッスンで教えていいただいた中盤のペダリングを中心に楽譜を3つのブロックに分けて、各ブロックを3回ずつ繰り返して弾きました。

 

バラード3番は、最初の部分のペダルをレッスンで教えていただいたので、その復習をしました。ペダルを入れるとカウントがうまく取れなくなるので、なかなか難しかったです。

そのあとは、全く弾けないのですが、本当に音だけ拾う感じで最後まで弾いてみました。曲にすらなっていないのですが、どれくらい大変か体感したかったので。

30分以上はかかったと思いますが、休みながら最後まで弾いてみました。

 

そんな、1日でした。

 

明日から、また1週間が始まります。自分なりに頑張りたいと思います。

 

「イエスと親鸞」を再読して  第四章 親鸞の教え(親鸞の教えの背景) 

この項は、8項目なので、小見出しごとにできるだけ簡潔にまとめていきます。

あともう一息です!

 

浄土教の伝来と法然

浄土教は古くからから日本にも紹介されていました。

平安時代に『往生要集』を書いた源信(1017年没)が有名ですが、彼が教えた念仏業は浄土と仏の観想であり、阿弥陀仏の名前を唱える「称名念仏」ではありませんでした。どちらかというと貴族向けであったと書かれてあります。

しかし末法の思想が広がっていた当時の日本では浄土教は大いに迎られ、阿弥陀仏を置く「宇治平等院」や源氏物語の掉尾を飾る「宇治寺十帖」にも源信をモデルとしたと思われる僧が登場するとあります。

 

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信より少し前、空也」(972年没)によって「称名念仏」が歌や踊りとともに広められ、貴族の間だけでなく一般庶民にも浄土思想は広がるようになりました。

 

当時人間界の階級解釈

   上品=出家者(出家僧はもっとも仏に近い)

   中品=貴族(出家が比較的可能で多額のお布施もできる)

   下品=庶民(生きて行くために数々の罪をはたらかかなければならない悪人)

 

中国の唐の時代に善導(681年没)という僧によって革新的な解釈が行われました。「阿弥陀仏の教える念仏の中で阿弥陀仏が本意としていたのは何よりも「称名念仏」であったという解釈です。そして、善導の浄土教の教えを日本で紹介したのが法然とのことです。

 

大乗仏教が中国から伝わってきたことは歴史で学んでいましたが、その中の浄土教もそうであったところが具体的に理解できました。

著者の立場は、法然以降の善導流のものを浄土宗、それ以外やそれ以前のものを浄土教と分けて説明するとあります。

 さて法然は最初、比叡山に入り修行をするのですが、出世欲に満ちた当時の仏教界に嫌さして、庶民の間で広まっていた浄土教に惹かれ、これを善導の解釈本のもとに学び、自らの解釈を持って、比叡山から庶民の間に入っていきます。

善導・法然親鸞

善導の解釈本「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」の中で、法然の心を打ったのは、

「ひたすら一心になって阿弥陀仏の名号を心に念じて暮らすならば、その長さ短さは問題にすることもなく、立派に修行していると見なせる。なぜなら、それこそ阿弥陀仏の請願に沿うことだから」

という言葉であるとあります。

善導の解釈は阿弥陀仏の教えは、むしろ下品のものに向けられたものであり、それが阿弥陀仏の本願なのであるから、下品のものこそ阿弥陀仏の力で救われるというものであった。下品のものとは、浄土や阿弥陀仏、また菩薩たちの観想をよく行うことができないものたちであり、それは、下品下生にきわまる。したがって、「ナムアミダブツ」と唱える称名念仏こそ、阿弥陀仏の本願となる念仏なのだと結論される。

 と、解説が続きます。

 

そして、法然は「善人尚浄土に生まれる。いわんや悪人をや」と語り、その弟子の親鸞も「善人なおもて往生を研ぐ。いわんや悪人をや」と教えます。

 

筆者は浄土教の教理に関して、善導、法然親鸞の間に大きな相違があるわけではなく、一続きの流れがあると見ています。それは専修念仏の思想と位置付けています。

 

しかし、旧仏教界からの反発が大きく、法然は晩年、四国に流罪になり、弟子たちも死罪や流罪親鸞も新潟へ流罪となります。

 処刑されたヨハネやイエスとも重なる部分です。

 

破戒と阿弥陀仏の救い

旧仏教界から見て浄土宗の持つ問題は、仏教の5つの戒律の廃棄と結びついたことによるとあります。

 五戒とは

  1. 殺すなかれ
  2. 盗むなかれ
  3. 邪淫を行うなかれ
  4. 偽りを言うなかれ
  5. 酒を飲むなかれ

 

と言う、禁止条項です。善導らの解釈のよると犯罪を起こしてしまうような民衆を救おうとすることが阿弥陀仏の本願であったので、仏教の戒律を現実に犯してしまうものこそが阿弥陀仏に救われる、と言うことになります。

しかしそのことを強調して犯罪を起こしても結局は浄土に行けるとか、むしろ悪人であることがあらわになることにより、阿弥陀仏の救いの対象にまちがいなくなると解釈をし、わざと飲酒や邪婬のの罪を犯すものが現れてきました。

しかし、そうであっても、罪を犯したものは阿弥陀仏の助けが得られないと言うことは、浄土宗の立場では言えないと言う意味のことが書かれてあります。

 法然の教えを聞き、欲望を持ちそれを満たすことに喜びを見出していた庶民の中にそれを逆手にとって、欲望とその満足を阿弥陀仏の本願とまで主張するものが出てきたのです。

 

こういったところが旧仏教界からの反発を招きます。

欲望とその満足とは、シャカがそれを止滅されることが、もろもろの苦を逃れる道で見つけたものであり、欲望の積極的是認はその逆になる。だから、善導の解釈が導いた浄土宗の教えは、受忍の限度を超えた。 

しかし、時は乱世です。罪深い生活を余儀なくされた庶民にとっては、法然の教えが救いになったことも事実です。生き残るために、殺生、売春もちまたにあふれています。多くの庶民が法然の浄土宗に帰依します。この人気も旧仏教界の反発を引き起こします。

 

旧仏教界の反発を引き起こした原因は、戒律の廃棄と民衆からの絶大な人気にあると言うことです。

エスの教えとの相違

 この部分はとても長いので、心に残った要点だけをまとめます。

 

ヨハネやイエスの教えも自分の犯した罪を認めることで天の国へ行けるとしたという点であり、浄土宗の教えと似ている部分ですが、ヨハネやイエスの周りで法然親鸞の周りで起きたような問題は起きませんでした。

それは、かれらは心の罪を問題にすることができたので、旧来の戒律がゆるめられると言う解釈が起きてこなかったからと説明されています。

 

しかし、仏教は戒律はありましたが、あくまでも物理的なものであり、心の中の罪を問題にしていませんでした。シャカが合理主義的で現実主義的であったことから、仏教は本来現実主義とあります。

 

阿弥陀仏の救いにあずかるためためには、実際の破壊が前提になる。しかし、欲望の満足を求める人間にとっては、それが格好の言い訳になってしまうのである。

と、いう点に対して、親鸞は、

「くすりがあるからといって毒を求めるようなことはするな」と戒めます。しかし、なかなか十分や抑制にならなかったようです。著者は、浄土宗がこの問題を完全に解決する道を理屈の上で見出すことは困難であったとしています。

 

しかし、親鸞が提示した「他力の宗旨」により答えが提示できるとあります。

 

要するに、自分が阿弥陀仏の救いの対象となるために自力で何事かを為そうとすること(わざと悪事を行うこと)は阿弥陀仏の持つ力という、「他力」に頼む心が欠けているということになると説明しています。

 

他力本願の徹底ということから「こころの態度」についてへの解説へと続きます。

 

親鸞のあゆみ

親鸞 文庫版 全6巻セット(講談社文庫)

親鸞 文庫版 全6巻セット(講談社文庫)

  • 作者:五木寛之
  • 発売日: 2017/07/23
  • メディア: 文庫
 

 〜この本もいつか読まなくちゃ〜

親鸞は、長生きで、90歳まで行きます。時系列で書かれていたので、彼の一生をたどっていいきます。

 

1173年 京都の中流貴族の家に生まれる(12年後に平家滅亡)

  • 9歳で出家〜比叡山の中で仏教諸州派を学ぶ
  • 29歳で比叡山を離れる〜69歳の法然をずね弟子となる

1207年 法然親鸞はそれぞれ別々の場所に流罪(その時がお互いの顔を見る最後となる)

  • 35歳から42歳まで〜流罪を許されてもその地にとどまる
  • 妻をもち、子をもった(妻帯は出家僧の戒律を破ること)

 

親鸞は、妻帯することで、自ら破戒僧となり在家の身になります。これは。法然の「専修念仏」の教えである「在家のための教え」に通ずる道、つまり在家が在家に仏教を伝えるという在家仏教の理想の完成形ともいえる、と著者はまとめています。

 

1114年 弟子仲間の手紙に触発されて、関東に出て、専修念仏を広める(約20年)

1135年 60歳を超えた親鸞は京都に帰り妻子と別れ著作に没頭する。

 

教え子らの混乱

冒頭に、

「在家仏教」を完成した親鸞であるが、しかしそれはまた、仏祖の伝統、つまり教えを伝えていくことについてルールを見失うことににもなった。

 とあります。親鸞は、徹底した在家仏教を完成したのですが、その権威のや思想の維持を伝えることにはあまり考えていなかったのではないかと説明されています。

 

親鸞もイエス先行者の思想を徹底し、先鋭化したのです。そのため親鸞の場合は弟子の間に混乱が起き、イエスの場合は後継者を見出すことなく、十字架形となったのです。

 

二人とも、実践者であり、その生き方を示すことにより、自分の考えを伝えようとしたのだと思います。しかし、そこがなかなかうまく伝わっていなかったことが書かれてあります。

 

歎異抄の背景

親鸞の教えは、残念ながら、彼が生きているときにも大きな混乱が起きていて、さらに彼の死混乱に拍車がかかります。

 

そのことを嘆いた親鸞の弟子であった一人の老僧「唯円」が、自分が直接親鸞から聞いたことを、死ぬ前にしっかりと紙に残さなければと決意して書かれたものが「歎異抄」ということです。

著者はこの書物の価値を非常に高く評価しています。

  •  唯円が、親鸞の生の声をしっかりと伝えようと書かれたものであること。
  •  唯円の信心の命がけともいえる覇気があらわれていること。

 歎異抄は、歴史でも学びましたが、その内容や背景までは知らなかったので、勉強になった部分です。

 

信仰のパラドクス

歎異抄」の第2節に、唯円が若い頃、他の弟子たちと京都に帰ってしまった親鸞を関東から訪ねたときのエピソードです。

 

往生極楽の道を聞き出すために訪れた弟子たちに、親鸞は、

「念仏が浄土に生まれる縁となるかどうか、あるいは、地獄に落ちるべき業縁となるべきものであるかどうか、いずれにしろ、わたしはどちらも知らないのです」

と言います。

続けて、親鸞が念仏をしてきた理由を、親鸞の言葉と著者の言葉でまとめています。

言い換えた著者の言葉を書きます。

親鸞法然の浄土宗に出会うまで、様々な修行をしてきた。しかし、悟りを開くことはできなかった。したがって、他にすがるものがない身だったのである。したがって、悪いのは自分の身であって、法然の教えではない。むしろ法然の教えに救われてあるのだから、死後に地獄に落ちても何を後悔するだろう。自分はもともと地獄行きでしかなかったのであって、地獄行きは念仏のせいではない、というのである。

ものすごい覚悟です。 

自己決定を迫る

親鸞は、次のように語り、訪ねてきた弟子たちに自己決定を迫ります。

阿弥陀仏の本願が本当のことであるなら。シャカの説教は嘘ではない。シャカの説教がほんとうのことであるなら、善導がなさった解釈は嘘ではあり得ない。善導の解釈がほんとうならば、法然がおっしゃったことがそらごとになるだろうか。法然がおっしゃったことがほんとうであるならば、この親鸞が申すことは、果たして虚しいことになるだろうか。思い返して考えてみるところ、こういうことであるから、往々の道として念仏を選んで信じるのも、またそれを捨てるのも、それぞれのお考えになされたらよろしい」

と。

親鸞がしたような覚悟や決断が弟子たちはできずにいるのです。しかし、親鸞は指導的立場にありながら、自分の信心への忠誠ゆえ指導的立場になることを拒絶していると解釈しました。

 

親鸞は他人も自分と同じように、念仏を知ればひとりでに阿弥陀仏の救いに気づくことができると信じていますが、残念ながら、その念仏の決意の意味が伝わっていないことを著者は説明しています。親鸞の思いが訪問者である弟子たちは「分からない」のです。著者は、「すれ違い」とも表現しています。

 

その親鸞の「思い」については次の項で解説されます。

 

I am a piano / Orquesta de la Luz

 

ganju39.hatenablog.com

 前の記事で「私はピアノ」のことを紹介したのですが、

その解説の中で Orquesta de la Luz

のことが紹介されていました。

その当時、早速YouTubeで調べて、聴きました。


I am a piano / Orquesta de la Luz

原曲の良さをラテン音楽に華やかに昇華した感じで、とても素敵です。

イントロの伸びやかなブラスの響き、思わずステップを踏みたくなるようなパーカッションのリズム、柔らかくて包み込むようボーカル、すっかりバンドをまとめ上げている雰囲気です。もちろん、ピアノも。ソロのところ、聴き惚れます。

 

CDも買いました。「サルサ」というジャンルに位置付けられる様です。

ラテン系の音楽もいろんなジャンルがあるんだなぁと思いました。

 

サルサには国境はない

サルサには国境はない

 

 

とて陽気な雰囲気なのですが、表面上の明るさの裏側にある人生の奥深さみたいなものも感じます。

 

素面で聞いてもいいのですが、ほろ酔い気分で聴くとこの雰囲気にすっかりハマります。

最高です。良い週末を!