降誕祭の夜

汝の敵を愛せよ

「イエスと親鸞」を再読して  第二章 ユダヤ教の伝承(創世記) 

二章を一気にまとめるのはちょっと私の力量では無理なので二つに分けてまとめます。

今回は第二章の前半の「創世記」についてです。

1「創世記」は何を語る物語か

 まず、第一章で取り上げた「オカルト」という概念について

前章で「オカルト」とうなんともあやしげな用語を持ち出したが、実は宗教家のことばを理解するための前提になるもの、あるいは、背景にあるものは、ある種のストーリーである。そしてそのストーリーはオカルトなのである。なぜなら、イエスやシャカが話の前提にしたのは、彼らのこころが「生きていた霊的世界」だからである。

 と、やはり意図的に読者の心を揺さぶるために使った言葉であることがわかります。「創世記」という物語が何を語るかを述べる前に、シャカやイエスが生きていた時代のことを理解するためには、このオカルト的話を異端的であるとか幼稚であるという古い権威から脱却すること(本では生き生きと回復すること)から始めることが大切と著者は考えています。

そのことがイエスやシャカの教えを現代に生きる私たちが理解できる前提になるのだと理解しました。

 

「創世記」はユダヤ教の伝統の中に置かれた「世界の始まり」についての話です。

旧約聖書」の冒頭の部分が「創世記」だと理解していましたが間違っていたらすみません。キリスト教系(プロテスタント)の大学で専攻していたのが西洋史ということもあり、「キリスト教学」は2年生まで必修科目でしたので、なんとなく創世記の物語の内容は覚えています。

  1. 「創世記」第一章 天地と人間の創造
  2. 「創世記」第二章 善悪の知識の木とは何か
  3. 「創世記」第三章 何に目が開いたのか(ヘビの紹介で始まる)
  4. 「創世記」第四章 カインとアベルの話

昔からあったこれらの物語はイエスの生きていた時代の物語なのですが、その時代の一般的理解とイエスの理解するところ、つまり同じ内容であっても、解釈が違うことにも触れています。

 

創世記の内容に戻ると

まず第一章では

「人間が神の姿に似せられて作られている」という話は、人間は「神のように生まれつき優秀だ」と考えらるべきなのか、それとも、もともと人間は「神のようでなければならない」という意味なのか。

この一文の解釈もイエスは後者の意味をとっています。「天の父が完全あるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」と福音書の中で語っています。完全なものという意味は「天地はその営みにおいても敵にも隣人にも同じ恵みを与えという事実から、イエスは、敵をも愛する神の愛を理解しているとあります。

隣人愛の教えを天地創造と絡めているのが第一章であるとイエスは理解したのだと読み取りました。

続いて第二章と第三章です。

「神に禁止されていた善悪の木の実を食べた話」が中心です。エデンの園の話です。神は園の全ての木からとって食べること許しましたが、善悪の知識の木からは食べないことを命じました。それを食べると必ず死ぬと。

エデンの園の中央にある善悪の知識の木は、畏敬の念を持って見つめ愛するものであり、それを大切にすることによって善悪の知識が霊として人間の心に満ちるように神は配慮したのです。食べしまうと、善悪の知識は、その実を食べた者の中に満ちるのではなく、逆に分解されて消滅すること。そして、そのことは霊において「死ぬ」ということを意味するのだそうです。

 

そして女と男は蛇に騙されます。

蛇は「その身を食べても決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」と間違った解釈を伝えます。身体としては死ぬことはないのですが、霊が死ぬとは考えなかったのです。

 

そのあとの物語は私も覚えています。二人は裸であることに気づきいちじくの葉で腰を覆います。二人の目は開いたのですが、知ることができたのは、善悪ではなく自分たちが裸でいることでした。つまり「善悪の知識の目」が開いたのではなく「自己愛の目」でした。そして、裸であることが恥ずかしくなったのです。

「自己愛とは性愛」→「善悪の知識はなぜ神の知識か」→「わたしたちと善悪の知識」→「自己愛と秘密」→「神の霊から隠れること」→「自己愛の知恵」

自己愛についての意味と人間と神との関係が善悪の知識を軸に説明されていきます。順を追って丁寧に読み進めました。

 

「善悪の知識の実を食べることは傲慢なことであり、自己愛によっては神の霊を受けることができなくなること」「自己愛に目覚めた人間は客観的な善悪の判断基準を見失い、その欺瞞を隠す知恵を手に入れたこと」が書かれています。つまり、心の中に他人には見られたくない秘密を持つということです。しかし神の目は完全なものであるからその目を逃れることができません。そして、アダムは、とうとう神の目を逃れ神を驚愕させます。この下りは、創世記第三章のクライマックスでしょうか。

神はいいます。

「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった、今は、手を伸ばして命の木からもとって食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

これはもちろん良い意味ではありません。人間が自分の都合で善悪の判断をして行動するようになったことを示します。よって、神はアダムとエバを追放します。 

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そして創世記第四章の二人の子供であるカインとアベルの物語へと続きます。

カインは土を耕す農民であり、アベルは羊を飼う遊牧民になります。そして実りの時期にカインは作物の実りを捧げ、アベルは羊の初子を捧げます。

ここで、神はカインの捧げ物を受け取らずアベルの捧げ物を受け取ります。神は善悪の問題で選んでいるのではないのですが、カインは、神がアベルを贔屓していると邪推します。つまりカインには神の霊はもうないのです。神はカインに言います。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もし、お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」

 怒りを持つカインは顔を伏せます。それは自己愛の現れです。秘密を持ち、それを神に見透かされまいとする態度です。正しければ顔を上げることができるはずです。

上記の神の忠告は恐ろし忠告であることも書かれています。

 

自己愛を持つ心の中に、罪は「つぎつぎと湧き出してくる」からです。つまり、神の目は、現実の行動において罪を犯してしまうこと以上に、こころの中に生まれてくる罪の方を問題としているということです。こころの中の罪については三浦綾子の小説にも書かれていた部分でもあり、私がキリスト教に興味を持った部分でもありました。

 

物語は続きます。カインはアベルを殺してしまいます。アベルの霊が土の中から神に訴えて、その事実が発覚します。そのことはつまり、アベルもまた、神の加護を得ていた人間ではなかったことを表してます。アベルも自己愛に支配され神の霊を持ってなかったと理解しましたが、アベルの自己愛の意味についてもう少し説明があると、分りやすかったと思っています。

 

「創世記」はこのあと、ノアの洪水の話、バベルの塔の話などユダヤ民族特有の物語に入っていくので、イエスが教えの背景としていた「オカルト的世界(霊的世界)」を理解するために、ここからは最低限のことに触れるとして第二章の前半部分を終えています。

 

創世記の物語を根拠にしているので、書かれている内容については自分なりに理解することができました。