田老第一小学校でのボランティア活動のまとめ
あれから10年経ったのかというのが正直な気持ちです。
3日間のボランティア活動について
まとめていたものを紹介します。
1 出発から到着まで
25日朝,28名のボランティアに募集したメンバーと盛岡を出発しました。国道106号線は,自衛隊の災害支援の車がかなり走っていました。宮古まで,道路が崩れているところもなく予定通り2時間ほどで宮古市につきました。
「ここから先は,天国と地獄くらい風景が変わります。」と担当の方から説明を受け,それぞれの避難所へと分かれました。一つの避難所に2名から4名応援に行きました。私が行ったのは,田老第一小学校です。担当の方の運転で,市街地を通りどんどん海の方へ進んでいくと,家の前に出され畳,たくさんの家財道具,堤防をこえて横倒しになった漁船,国道に打ち上げられた船。2階まで浸水した市役所,ぐちゃぐちゃになった家屋,魚市場。目の当たりにすると声も出ません。被害が大きかった鍬ヶ崎という集落は,家が土手に向かい何軒も押しつぶされている様子が見えました。
三陸海岸を北上していくと、しばらく山道やトンネルが続き,30分ほどで田老地区が見えてきました。辺り一面、がれきの山です。堤防の内側にある家は,跡形もないです。形をとどめている家は,高台の方にしか見えません。家の形があればまだいい方で,そこに家があったのかどうか、分からないような場所が殆どでした。国道の瓦礫の中を通りながら担当の方が「津波の後,田老地区の国道45号線は道路もがれきで覆われ,通行不能だったけど,自衛隊の方々が片付けてくれて,通れるようになったし,瓦礫もずいぶん片付いた。」と話していました。
2 主な活動
避難所の学校に到着しました。最初に活動をしていた方々から引き継ぎをしました。電気も水道も復旧し,食料も灯油も十分にあり,思ったより快適に活動ができたという話でした。仕事内容は,避難所に届けられる物資の仕分け・整頓,自衛隊の方々が持ってくる炊き出しの運搬,体育館のストーブに灯油を入れることなど,が主な仕事で,その合間は,避難所にいる就学前の子や小学校低学年の小さい子どもたち5,6人の遊び相手になっていました(朝から夜まで・・・体力勝負でした!)。
その中で思いっきり甘えてくる女の子がいて、一日中、おんぶや抱っこをしていました。その子は、津波で壊れた家で寒さに震えながら家族と一晩過ごしたことをおんぶしているときに話してくれました。
避難所へは,ありとあらゆる物資が届けられていて,生活する上で物がなくて困ることはないようでした。水道は,まだ完全に復旧していなくて,洗いものは屋外にある水道でしていました。お湯は,まだ使えません。トイレは,仮設トイレか,体育館にある汲取のトイレでした。テレビは,27日に設置され見られるようになりました。それまで外部からの情報は,地域の防災無線による放送とラジオからだけだったそうです。
3 避難所での生活
避難所の学校の先生の話によると,最初の2日は物がなくて大変だったということでした。地震の後、保護者の方に連絡をしようにもできなくて,150名の子ども達と学校で一晩過ごしたそうです。寒さをしのぐために学校中のカーテンを外したこと,子ども達と保護者の方の涙の再会の話など、本当に大変な時間を過ごしてきたことが分かりました。
救援物資は,震災後の3日目ぐらいから入り始めたということでした。避難所に生活している方々は,年配の方も多いことと,それぞれ,顔見知りが多いために,協力し合いながら生活ができているようでした。炊き出しの配膳,清掃,洗い物などは,分担して手際よく進められていました。お風呂は,市内にある入浴施設に行く日が決まっていて,バスで交代で行っていました。わたしも,引率をかねて行くことができました。入浴施設の社長さんが,「被災者の方が無料で入れる日を延長します。」とお話してくださいました。そういった細かいことの連絡・連携が市職員の方々の中で上手くできているなと感じました。
職員の方の中にも,津波で被害にあわれた方もいらっしゃいました。物資は,自衛隊の方が持ってくる物資(私がいたときは主に衣類)の他に,宮古市に届けられる救援物資(主に食料・生活用品等)を分けたものが避難所に毎日届けられます。その他にも,企業が直接持ってくるものなどを,市の職員の方が計画的に分配の仕方を考えていました。
4 被災された方から聞いたお話
あるおばあさんの話ですが,
「逃げながら後ろをみたら堤防を津波が越えてきた。波が家々を飲み込み屋根が流れて迫って来るのが見えた。自分の集落の方をみたら,火事になっていた。だから,必死で山を越えて線路を通ってこの避難所まで逃げてきた。
夫は,病気で入院施設に入っていたため,無事だった。生きていてよかったのか,死んだ方がよかったのかよく分からない。少しずつ電化製品も揃えてきたのに何もかもない。年金で生活しているのに新しい家を建てるお金もない。病気で足が痛いのに必死だったから痛みも忘れて夢中で逃げた。」
といった話をしてくださいました。
私と一緒にボランティアで入ったもう1人の方は,保育所から避難する子どもたちと、同じく避難してきた中学生が途中で一緒になり,幼い子どもたちを中学生がだっこやおんぶをして必死で逃げた話や,あるおばあさんからは昭和三陸大津波の話を聞かされたそうです。
避難所になった小学校の廊下の掲示などを見ると,津波に対する意識はかなり高いことが感じられましたが,地震があって慌てて学校に子どもを迎えにきて連れて帰った保護者の方もいて,その中には家に戻って津波に巻き込まれた子どもいたそうです。大人の方の中に,やはり津波への油断があったかもしれないという話をされた方もいて「まさか、そこまでくるとは!」というところが正直な気持ちだったようです。
5 ボランティアを終えて
市の職員の方の話だと自衛隊の方々は震災3日後には,もう目に見える活動をしていたそうです。ニュースなどで見る情報以上に宮古方面には自衛隊は,はやく派遣され活動していました。そして,炊き出しも22日頃から、田老第一小には届けられたそうです。
宮古市田老町の壊滅的な被害の情報がが,きちんと伝わり行政や自衛隊が動いていたようです。到着した日に担当の方がお話しされたように,たくさんの重機やトラックを使い町の瓦礫の撤去作業も進んでいました。
でも,避難所にいると痛ましい風景だけでなく,人々の悲しみも伝わってきました。
ボランティアの最終日に,宮古市内の小学校は,4月25日が始業式,26日が入学式と決まったということを聞いてボランティアを終えました。
3月11日で、とまったままになった職員室の出席黒板や体育館に山積みになった救援物資、安否情報の貼り紙など、強烈な体験となり、ここに書いたこと以外にも今でもその3日間のボランティア活動のことは記憶にしっかりと焼き付けられています。あまりの被害で写真は撮れませんでした。
文字ばかりで、長文になってしまいました。
被災地の方にとっては、とても辛い10年間だったっと思います。
今回は、その時の自分の気持ちを掘り起こすために、記録していたものを若干整理してアップしました。